いよいよ

 いよいよブログを一日休むことに。ここ一ヶ月忙しかったのが、昨日で一段落したところ、少し気が抜けてしまったみたい。今後、どういう風にブログを続けていくかも、ようく考えようと思う。基本方針は、ブログを続けるという感じだけれど、四月からは生活がガラリと変わる。ブログばかりに固執せず、柔軟に暮らしていきたいね。

 

「純」という漢字の怖さ

 大学に入ってから出会った言葉に「純ジャパ」というものがある。先日「けものフレンズ」について触れたから「ジャパ」とくれば「ジャパリパーク」のほうが思い浮かぶ気もするが、もちろんそうではない。両親とも日本人で、ずっと日本で育った人のこと。純粋なジャパニーズのこと、である。この言葉は(在日)外国人との対比で使われるというよりは、帰国子女との対比で使われる。文脈としては、「帰国子女の学生なら英語が流暢なのはもちろんだけれども、あの子は純ジャパなのに発音良いよね」、とかそんな感じに使われていた。Wikipediaで調べると(というか、Wikipediaで項目になっていることに驚いた)、元々ICU上智といった大学で使われるようになった言葉だそうだ。なるほど、帰国子女が多いところである。

 それにしても、ICU上智といった、人の多様性に富んだ場所だからこそ「純ジャパ」という言葉が使われるようになったというのは皮肉なものだ。「差別的な意図は含まれないことが多い」というが、「純」という漢字からは、やっぱり人を区別する印象を受ける。すぐに思い浮かぶのは、『ハリーポッター』でスリザリンの寮に入る子達が「純血」の魔法使いだ、というような文脈。とはいえ、「帰国子女じゃない」人をさすときにちょうど良い言葉がないのだから、とりあえずは「日本でしか過ごしてない」「生粋の」という感じで「純ジャパ」なのだろうか。

 帰国子女の方が良いとか、純ジャパの方が良いとか、そういう議論をする気は無い。でも、ある特定の経験をしたことがあるかによって「純」か「純じゃない」かが決まってしまうのか、と驚かされるほどには「純」という言葉の持つ意味は大きい。そして、それくらいインパクトの強い言葉を選ばざるを得ないほど、ICU上智も、「帰国子女かどうか」の違いがハッキリ出る場所だったということだろう。非「純ジャパ」(つまりは帰国子女)も、その経験の幅は広い。だから一口に学生を「純ジャパか帰国子女か」の二分はできない。日本語よりも英語の方が得意な学生もいれば、基本的には日本語が母語で、英語もポケモンレベルにはできる、という、わたしのような学生もいた。特に語学力なんて、できる/できない、というだけでは判断できない。海外に住んだ経験、という切り口だとしても、記憶もない幼少期のことなのか、小学校から高校卒業までなのかで全然違う。人それぞれの経験や能力なんて、グラデーション的な分布であって当然なのに、「純」という漢字一文字が、YesかNoの二択というような見せ方をさせる。

 世界中のあちこちで、移民政策をどうしようという議論が出ている。そして、どちらかというと、多様性を大切にしたいというよりは、自国民を優先したいとか、よその干渉は受けたくないとか、そういう方向に向く力が強いように見える。そんな中で「純ジャパ」という言葉は、やっぱりその言葉本来の意図された意味以上のイメージが想起されてしまう気がしてしまうのだ。「帰国子女ではない」ということだけを意味したいなら、それ専用の、もっとしっくりくる言葉が使われるようになっても良いのではないだろうか。そう思ってしまうくらいには、「純」という言葉は強い。

リスニングの力

 大学受験の時にも英語のリスニングというのは得意だったし、大学院でイギリスに留学するために受けたIELTS(イギリス版のTOEFLのような試験)だって、全体的には苦戦したが、リスニングは比較的すぐに合格ラインを超えるスコアを取れるようになったけれど、やっぱり試験と実践は違う。今日は久々に思い知らされた。

 試験の時は、「聞き取るぞ」という意志を持って聞こうとするし、なんならあらかじめ問いもわかっているから、聞く前から何が聞こえてくるのかはわかっている。そうでなくて、イギリスに留学している間の生活の中では、四六時中英語に囲まれていたので、「心の準備」なるものはもはや不要だ。イギリスに住んで最初の一ヶ月は、夜寝ると夢が英語になって狼狽したけれど、いつしかそれも忘れるくらいには英語の環境にも慣れた。そこに住む限り、いつだって、声をかけられる時は英語が前提なのだから。そういう生活を、一年間、過ごしてきたはずだった。

 でも、日本で暮らしていて、全然想定していない時のリスニングというと話は別だ。イギリスから、突然携帯に電話がかかってきたのだ。携帯電話に発信元の電話番号は表示されていたから、イギリスからの電話というのはわかっていた。それでも、動揺したのか普通に「もしもし」なんて電話に出てしまった。もちろん、向こうは英語で喋る。どうやら、カレッジからの電話らしいが、焦っているし、国際電話で電波も悪く、ほとんど聞き取れない。どうやら在学中のカレッジでの暮らしについて聞きたかったらしいが、脳内はプチパニックで、気がついたら「今はちょっとタイミングが悪いから掛け直してくれ」というようなことを英語で言って、話を切り上げていた。最近だってアメリカのドラマとかを英語で観たりしていたのに、このザマだ。情けない。

 もともと、英語での電話というのが苦手だ。対面で話している時に聞き取れない情報を補完してくれる、相手の表情とか、その場の雰囲気みたいなものがないし、音質も大抵悪い。英語のリスニングの試験だって相手の表情は見えないが、試験のリスニングは、あくまで試験用、それなりに聞き取りやすいようにはできている。それに、よく考えたら、日本語の時だって、電話ではなく対面の時だって、わたしはよく聞き返す。あるいは、とりあえずわかったフリをして話を進めてしまう。時には隣の部屋の壁にかかっている時計の秒針の音が聞こえるくらいには聴力は良いが、「聞き取り」というのは、全く違う能力なんだと改めて思った。これくらい「聞き取れなかった自分」に言い訳を一通り考えついて、ようやく、気分が落ち着いたところだ。わたしも結構小心者である。

 さあ、おそらく明日、また電話がかけ直されてくる。どうしよう。本当の重大ごとではないみたいだから、いざとなったら居留守を使ってしまうかもしれない。

野菜カード

 幕張という、都心から大して離れていないところで育ちながら、特に食べられる野の草花に関心があり、それなりに色々知っているという絶妙なバランスで育ったわたしは、「食べられる」つながりで野菜が畑でどんな風に育つかというのも比較的よく知っている方だ。車に乗っていて、知らない土地を走っている時に道沿いにある畑で咲く作物の花を見て、何の作物かがわかるくらい、だけれど。特に日本の本州で育てられるものについては、少なくとも同じくらいの街で育った人の中ではわかっている方だと思う。さすがに農家の人ほどとは言えないし、北海道へ行った時も、植生が違うのでわからないものもあったけれど。

 そんなわたしが、今日は古本や観葉植物を売っているカフェで友達とあって、衝動買いで、任天堂のゲームを買ってしまった。3DSでもnintendo switchでも、WiiUのソフトでもない。充電不要、テレビにつなぐこともない。その名も、「野菜カード」。かるたのように、カードは対になっている。可食部の野菜の絵があるものと、その野菜の花の絵があるもの。ひらがなで、野菜の名前も入っている。それを使って、トランプのようにも遊べるらしい。

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 気に入ったのは、絵が優しくも詳細なところや、花と可食部をマッチングさせるところ。全部で32種類の野菜があり、ジョーカーとして「虫」が入っているのも面白い。虫が、せっかくの作物を食べてしまう、ということか。

 図鑑や百科事典のような役割はないから、例えば「たけのこ」の可食部や花のカードはあっても、それの知識を提供するような情報はどこにもない。でも、それも良い。興味を持てば、調べれば良いのだから。押し付けがましくなく、それでも野菜に親しみを持たせてくれるというところが好感触だ。特に花のカードが気に入っていて、似ている菜っ葉系同士やウリ系同士でも、葉の形とか花のつき方が、微妙に描き分けられている。眺めているだけで楽しい。

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 今のところ、これで何をしようという計画は特にない。もしかしたら、カードをいつでも積んでおいて、明日八百屋で何を買うか決めるのに使えるかも。少し残念なのは、「季節」とか「旬」とか、そういう視点からの分類がないことだけれども、それも自分で調べてみようかな。

 お店でこのカードを買う時、お店の人には「お、良いもの買いますねえ」と言われた。こういうのを面白いと思う人が他にもいるというのは嬉しい。楽しい買い物ができた。

キジの導き

 お彼岸も最後の日の今日、イギリスへ単身赴任中の父も日本に帰ってきているということもあり、祖父のお墓参りをして、その足で地元へ。せっかくの春の陽気、母とわたしは勇んで散歩へ。春にしかできない遊びは、春のうちに遊びつくす。そういう心づもりだ。それで、先日書いた、キジを見たところへ、再度行ってみることに。ただキジがいるかも、というだけでなく、近くにセリやつくしが生えそうな場所があったので、あわよくば今日も春の味覚を採集しようと思ったのだ。

 「この間は、あそこの駐車場でキジを見たんだよねえ」なんてしゃべっていると。なんと、また、いるではないか! 一羽のオスのキジが!!

 草はらを挟んだ向こう側の駐車場に止まっている車の、すぐ近く。白い車を背景に、見事な色のキジの羽。母とわたしとで、びっくりして、草はらを回り込んで、駐車場へ向かった。

 回り込むまでの少しの間、枯れ草の叢でキジの姿が見えなくなる。まだ、そこにいてくれ・・・! そう願いながら、回り込み、砂利が敷き詰められた駐車場まで入って、そろりそろりと奥へ。一番奥の車の近くに、キジがいたはず。

 

 さっきまでいた、車の後ろには、いない。でも、視線を少し移すと、なんと、白い車のボンネットの上に!

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 もう少し近づこうとしたら、車の向こう側に降りてしまった。さらに近づくと、そこから10メートル弱ほど飛んで、いよいよ見えない茂みに入ってしまった。それきりだった。

 ふと、足元を見てみると、つくしがツンツン生えていた。「目の慣れ」というのはすごいもので、最初は「あれ、何本か生えているかな?」くらいにしか思わないのに、目が慣れると、幾つも、幾つも見つかる。結局、そこはかなりたくさん生えている場所で、小さすぎるのや細すぎるのを避けて採っても十分食べられるくらいには採れた。

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 キジに寄せられて、これまで知らなかったつくしのスポットを新たに知った。幕張という微妙に田舎、微妙に都会という場所で、なかなか面白い体験だった。もちろん、つくしは卵とじになった。ハカマを取るのは多少面倒だし、爪はアクで黒っぽくなるけれど、それでも春らしさを感じられる味覚、楽しいひと時だった。

 そういえば、キジが乗っていた白い車、つくしを満足するまで採ってふと良く見たら、BMWだった。ボンネットにキジの爪の跡がついていないと良いけれど。ついていたとして、車の主は、それがキジの爪だと思うだろうか? 母とわたしとキジだけが知っている、秘密になった。

フラミンゴと狼少年

 せっかく年間パスポートを買ったので、上野動物園へ行ってきた。四回行くだけでモトが取れるという嬉しい価格の上野動物園年パス、良いペースで活用できている。

 前回はパンダが見られなかったのだけれども、今日はパンダは二頭とも元気一杯。一頭はもりもりと笹を食べていた。「パンダは笹を食べる」というのは知っていたけれども、食べるのは葉とか、せいぜい枝の細いところだろうと思っていたら、剣道の竹刀に使いそうな結構太いところまで両手で持ってもしゃもしゃかじっていて驚いた。近くの岩に背を持たれて、お腹の上にたくさんこぼしながら太い笹の幹(幹という言い方をするのだろうか?)を食べるパンダの姿は、中にお行儀の悪いお坊ちゃんが入っているようだった。もう一頭は、とてもアグレッシブ。水浴びをして大はしゃぎをした後、木登り。ほんの少し登るとかでなく、幹をみるみる登り、枝を渡り、見る人々は歓声をあげた。エンターテイナーだった。

 

 フラミンゴ舎のところも、人だかりになっていた。フラミンゴの美しいピンクが目に眩しい。水かきを持つ細い脚で立って、体はラグビーボールのような楕円形で、そこからまた細長い首が伸び、頭に対して大きいくちばし。そのフォルムは、同じ鳥類のはずのフクロウとは大違いだ。フラミンゴは野生でも塩湖の水辺で藻などを食べて過ごすらしく、フラミンゴ舎でも水辺は大きい。そこで水を飛び散らせながら水浴びをするフラミンゴを眺める少年二人組が、なんとも高いテンション。わあわあと叫ぶ。

 次第にテンションが変な方向に上がりすぎて、様子が変わる。

「わあー、逃げろー!」

「とにかく逃げてー!」

「おばけが来るから、隠れてー!」

「逃げろー!」

「おばけがくるぞー!」

 こんな少年達の忠告も虚しく、フラミンゴ達は相変わらず優雅に、水浴びをしたり、日に当たって気持ちよさそうに昼寝したりしている。動物園に暮らす生き物達は、こういう少年たちの賑やかな声には慣れっこなのだろうか。フラミンゴを眺める人間の大人達も、だあれも逃げたり隠れたりなんてしない。見事に、誰にも忠告を聞いてもらえない狼少年になっていた。それでも、少年たちは、楽しそうだ。わあわあと盛り上がっている。

 少年たちの想像の中で、どのような場面設定になっていたのだろう。フラミンゴとおばけ。その組み合わせはなんとも似つかわしくない。コウモリなどの生き物が見られる、暗い通路ではない。陽の光がさんさんと照り、ピンクの羽が見事に輝くフラミンゴ舎なのである。そこに、おばけは、どう現れたのだろう。どんなおばけを、想像していたのだろう。フラミンゴ舎で広がる、おばけの物語。少年たちの想像力の豊かさに、なんだか励まされる思いだった。

悪いところ

 わたしは地元の公立中学校へ入学せずに私立の中学校を受験して行かせてもらった。候補の学校はいくつかあったが、結局三校の試験を受けた。一番最初の受験は、第一志望の学校よりは偏差値の低い、いわゆる「滑り止め」の第三志望。心から「この学校は良いと思うから行きたい」と思っての受験ではなかった。

 国語や算数といった普通の科目の試験を受け、最後にアンケートのようなものが配られた。そこには、自分の得意なこととか、好きなことなど、「自分」をアピールするための質問がいくつか書かれていて、それも、選考の一部だった。もちろん時間も区切られていて、わたしは比較的スラスラと書いていった。「どうしてこの学校を受験したのですか」というような問いに対しても、「滑り止め」なんて野暮なことを書かないくらいの分別はあった。ただ、その学校の良いところというのもよくわからなかったので「制服が可愛い」なんて、大して思ってもいないことを書いた気がする。

 いくつかあった質問のうちの一つは「自分の悪いところは何ですか」といったものだった。入試のためのアンケートに書く、「悪いところ」。少し難しい。自分の悪いところが思い浮かばないわけではないけれど、自分がこの学校にふさわしいとアピールするために書くのだから、本当に極悪なこと(というほど極悪なところもないけれど)は書けない。だから、そこまで致命的でないことを書くので済ませたい。12歳のわたしはそう思った。

 幼稚園くらいの頃から、背の順で並べば後ろから数えた方が早いくらいには背が高い方で、その影響もあり猫背だったわたしは、当時しょっちゅう母に「姿勢が悪い」と言われていた。それをふっと思い出し、「そうだ、姿勢が悪い、というのは、ちょうどよかろう」と思い「姿勢が悪い」とだけ書き、アンケートを終わらせた。

 残り時間はまだある。呑気にボケーっとした。試験官の人が「あと一分で回収します」とか言ったときだっただろうか、気まぐれに、アンケートを見直した。そうしたら、

「自分の悪いところはなんですか」の質問は、ほんとは

「自分の性格で悪いところはなんですか」というものだった。読み飛ばしていたのだ。

 性格のことを聞いていたのか!そうだとしたら、答えが「姿勢が悪い」では、トンチンカンだ。あと何秒残っているのかわからないけれど、とりあえず「姿勢」の字だけ、消しゴムで消した。残った空白に何か入れれば、それで「何々が悪い」と、回答できる。その「何々」を、焦って、考えて、考えて・・・

 ようやっと、思い浮かんだのが「態度が悪い」だった。「態度」と書いた瞬間、「鉛筆をおいてください」という試験官の声。さっさと、アンケートは回収されてしまった。せっかく、当たり障りのない、「自分は良い生徒だ」というアピールができるようなアンケートにしようと思っていたのに、最後の最後で「態度が悪い」という回答になってしまった。いかにも悪い生徒じゃないか。読み飛ばしてしまった自分が、ギリギリまで気づけなかった自分が、なんだか、情けなかった。

 

 今にして思えば、「態度が悪い」なんて回答、微笑ましい気がする。ほんとに態度が悪い生徒が、「態度が悪い」なんて自分から書くだろうか。しかも、その字のしたには、消しゴムで消した「姿勢」の字がうっすら見えたとしたら。きっと、すぐに「この生徒はそそっかしいのだな」という解釈に至っただろう。

 

 結局その学校には受かったけれども、第一志望が受かったのでそちらに行ってしまった。親もわたしがこの学校には行く気が無かったのを当然お見通しで、合格が決まった後も、入学手続きは進めていなかった。だからこそ第二志望に落ちた時には焦って大泣きもしたのだけれど、結局のところ、面白がって受験した第一志望に受かり、辻褄があった。大学受験もそうだったけれど、中学受験も、試験そのものを「面白い」と思いながら取り組んで解答したところに、結局は受かることができたのだった。