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独演会より寄席

 ある特定の落語家のファンだったり、じっくり落語を聞きたかったりという場合は贔屓の噺家の独演会へ行くのが良いかもしれないけれど、わたしは断然、寄席派だ。

 寄席は盆も正月も毎日、年中無休で営業で、一人でふらりと立ち寄るもよし、友達と行くもよし。新年やゴールデンウィークの特別興行は錚々たる顔ぶれ、客も満員御礼でいかにもおめでたいけれど、こういう、普通の平日にいくのが良い。そこにいるのは一人で来たビール缶片手のおじちゃんか、おべんと片手の二人連れのおばちゃんが多く、ときどき校外学習か何かの中学生。小綺麗な格好をしている人は少なくて、とにかく動きやすさや温かさといった機能重視の服装の人が多い。ときどき、デート中のカップルも混ざっている。

 と、知った風に書いてはいるが、わたしもそうしょっちゅう寄席にいくわけではない。映画館で映画を見るよりも高い、それなりの値段を払うのだし、せっかくならある程度は居座りたいけれど、そんなに長時間、笑うためだけに時間も割いてはいられない、と思い込んでしまう。笑ってばっかりはいられないよ、あれもこれも、まだやらなきゃいけないのだから・・・と、わたしの理性が邪魔をする。事前に競争率の高いチケットを入手して、さあ、あと何日で誰々師匠の独演会、ともなれば時間に対する勿体無さを感じないのだけれど、ふらっと立ち寄る寄席というのは、誘惑から現実に引き戻そうとする理性も大きくなる。寄席の近所には住んでいるので、番組表はいつでもチェックしているし、いつだって行きたいけれど、10日おきとか、毎月とかというペースにはなかなかならず、結局は年に4回くらいで落ち着いている気がする。時間が、とか、もったいない、とか言いつつ、寄席に行って後悔したことは、これまで一度もない。

 話は戻して、主題は独演会より寄席というところ。寄席のよいところは、色物があるところ。それに尽きるというほどではないけれど、色物がなくては寄席らしさに欠けるとは思う。ご存知の通り、色物は寄席における、落語や講談以外のもので、マジックだったり、曲芸だったり、紙切りだったりとさまざまだ。寄席で見るマジックは、昔好きだったドラマ「TRICK」の主人公、山田が花やしきで披露するものを彷彿とさせるようなもので、観客席は妙なヒヤヒヤ感と、少しの「喜んであげている感」を帯びる。紙切りはわたしのお気に入り。体を前後に動かしながら、観客のリクエストのものを切る。「富士山」という具体的なモノ(場所)がリクエストされることもあれば、「花見」というやや抽象的なモノもリクエストされる。昔遊んだ「ピクショナリー」というボードゲームが思い出される。馴染みの客は、番組表を見て紙切りがあるとわかると、何をリクエストするか考えておくのだろうか。リクエストしようと思っても、大抵おじちゃんかおばちゃんに先を越されてしまう。一度だけ、先に考えておいた「ふくろう」というリクエストを聞いてもらって、最後にできた作品をもらった時は「ようやく私も」と、少し得意な気持ちになった。都々逸が入る時もある。最初は何を言っているのかまったくわからないので楽しめなかったが、今は「言葉」の理解を求めるのではなく、リズム感やメロディに良さを感じられるようになって、好きになった。

 そうやって、落語とは違うリズムを挟みながら、次々に芸を楽しんでいく。空いている時には空いている時の落語があるし、ウケが悪い時にはその時の空気を楽しめる。寄席はたいてい独演会をやるようなホールよりも狭いから、噺家と観客の距離も縮むように感じる。噺家に、観客個々の存在を気づいてもらえている感じが良い。

 先日、音楽好きの友達に「最近どんなライブやコンサート行った?」と聞かれたけれど、最近ナマの舞台を見た機会を辿ってみたら、寄席だらけだった。寄席は落語のライブハウス。落語家さんが「やっぱりホールよりも寄席の方が演りいい」なんていうのは世辞かもしれないけれど、そういってくれりゃあ、寄席に行く甲斐もあるってもんなんだ。