知ったかぶりと、しらんぷりから

 子供のころ、ジャイアンが怖くでドラえもんのアニメを観られなかった。テレビがついていて、ドラえもんが始まると、なにか理由をつけてテレビを消したり、チャンネルを変えたりしていた(たいてい「もう眠い」とか言っていた気がする)。たぶん、同じような理由だと思うけれど、セーラームーンも興味がなくて、ほとんど観ていなかった。でも、幼稚園に行けばクラスメイトはセーラームーンが大好き。外で遊ぶ時間には「セーラームーンごっこ」が流行っていたし、それぞれお気に入りのキャラクターがいたから、思い思いのキャラクターになりきって、悪を成敗していた。私はといえば、セーラームーンはよくわからないし、どんなセリフを言えばよいのかもわからなかったけれど、遊びには混ざりたいので、知ったかぶりで輪に入っていた。だいたい、タキシード仮面あたりの役が回ってきて、少し離れた場所からセーラー戦士たちを見守っていたような気がする。同じ「少し離れた場所から見ている」でも、ただ見ているより「タキシード仮面として」見ているほうが、楽しかったのだと思う。いまだに、タキシード仮面の役回りもよくわかっていないけれど。

 年を重ねるなかで、知ったかぶりよりも知らないふりのほうが、会話がラクだということに気が付いた。自分がある程度知っていることでも、「へえ、そうなんだ!それで○○はどうなるの?」などと疑問の形で話せば、相手は得意になって答えてくれることが多いのだ。何でもかんでも「知らない」と言ってしまうとバカっぽいので、いつもは普通に会話する。知らないふりは、伝家の宝刀であり、諸刃の剣。フリだとバレてしまったら信用問題になるのだから、そのリスクに気づいてからは、使うこともぐんと減ってしまった。それでも、とくに初対面の人との会話では、「教えてください」の姿勢はいまだにかなり役に立っている。

 結局大人になって、知ったかぶりも、知らないふりも、昔よりは減ったけれど、そこから学んだのは、「知りたい!」という態度は、会話を面白くするということ。同じトピックに詳しい同士の会話でも、人によって視点や意見は違うのだから、「あなたの立場からはどう見えるの?」「私はこうだと思っていたけれど、こういう視点から見るとどうなの?」など、自分の視点と相手の視点の交点を探ることを目指して会話する。「自分から見たらこう!」というのをひたすらに語ったり、「相手に全部語ってもらおう」と依存したりするよりも、相手と自分とがそれぞれの視点を持ち寄ったから生まれる会話をするほうが、予定調和的な会話にならないから面白いのだ。もちろん、いつもどんなときでもこういうスタイルの会話、というわけではないけれど、懇親会などの席では大いに役立っている。

 そんなこと、あたりまえじゃん、と思う人もたくさんいると思うけれど、私はそれに気づくのに時間がかかった。時間はかかったけれど、今こうして人との会話も楽しめるし、それを言語化できているのだから、十分にわたしの財産になっているのだと思う。