言葉が分かるもの同士の安心

 昔、アメリカに住んでいたころに通っていた小学校は、私のような、英語が母語じゃない生徒を受け入れ、英語を外国語として学べるクラス(English as a Second Language / ESL)をもっており、私もそのクラスに入っていた。ふだん、体育や音楽、算数などの授業は地元の子たちも含めた、自分のクラスに入り、クラスメイトが国語(英語)などの授業を受ける間だけ抜けて、ESLのクラスへ行く、という仕組みだった気がする。

 日本人は、私のほかに二人の男の子がいて、いろいろ助けてもらったけれども、一方でその二人にべったりだったかというとそんなこともなく、自分のクラスのネイティブの友達とよく遊んでいた気がする。

 私が学校にようやく慣れてきたころ、中国から、転校生がきた。その男の子もわたし同様、英語はわからない。きっと心細かったろう。わたしのいるESLのクラスに入ってきて、わたしは同じ黒い髪のアジア人同士と嬉しく思い、当時なぜか知っていた、中国語での「こんにちは」である「ニーハオ」と、声をかけてみた。きっとわたしだって、転入してきて心細いころに「こんにちは」とか「やあ」とか声をかけてもらったら嬉しいにちがいない。そういう、善意だった。

 「ニーハオ」そうわたしが声をかけると、ものすごい勢いで、中国語を話し始めた。わたしのこと、言葉が通じる人だと思ったんだ。ああ、でも、「わたしは日本人なんだよ」「ニーハオ以外の中国語わからないんだよ」なんて、英語でどう言うのかもよくわからなかったし、仮に英語でそう言えたとしても、転校生の彼だって英語がわからないから、結局はコミュニケーションにならなかっただろう。とはいえ、わたしが中国語をわからないことは伝えなきゃいけない。困り果てて、身振り、手振りと、なんとか知ってる言葉をつなげて「アイム フロム ジャパン」とか言って、どうにかしたんだったと思う。当時は善意だったけれど、今思えば罪なことをしてしまった、のかもしれない。

 そういえば、昔イタリアに家族旅行で連れて行ってもらったとき、町中でお店の呼び込みをしているオニーサンが、わたしたち一家を見て「サイタマケン!」「サイタマケン!」と叫んでいた。周りの雑踏の中でも「埼玉県」という言葉はすごくまっすぐはっきり耳に届いた。母語は、自分の耳を引きつける力が強いのだ。それが、そのオニーサンの、日本人相手の商売のテクニックだったのだろう。

 

 実は今年の夏、近場の観光地にあるお店で接客のお手伝いをした。「英語ができるなら手伝ってよ」と言われたのがきっかけで、結局夏の数ヶ月をそのお店で手伝った。

 東京下町の観光地には、外国人観光客も多い。そして、下町に並ぶお店は、英語をしゃべれるスタッフがいないところばかりだ。わたしはそういうところに一人の客としてふらりと立ち寄ったときに、外国人のお客さんが入ってきて、店員さんが困り果てている様子を見ていたたまれなくなり助け舟を出す、というのを何度かやったことがあった。その延長だ。そうして、お店のお手伝いをして、日本語話者じゃない人が来ると対応する。そんなことをしていたわたしは、日本語がわからない観光客にとってささやかなオアシスだったのかもしれない。わたしが英語を十分にしゃべれるとわかるやいなや、「スカイツリーへはここから簡単にいけるのか?」とか、「夕飯を食べるのにおすすめのお店を教えてくれ」とか、「日本ではチップを渡すべきなのか?」とか、とにかく今のうちに疑問をいろいろ解決しておこうとでもいわんばかりに、質問攻めにあう。そして、すごく、安心した顔をするのだ。その安心した顔が嬉しくて、わかることならば喜んで答えたし、必要なら一緒になって地図を見て、道の方角を示した。「英語をちゃんとしゃべれるひとがいて良かった」そういってもらうにつけ、「自分の言語をわかってもらえないのは、緊張するものなのだな」と感じさせられた。

 「言葉が通じる」というのは、すごくコミュニケーションの根底にある前提。この前提をズラしてしまうと、わたしが転校生に善意のつもりで話しかけてしまったような、「通じないことの再確認」をしてしまうし、一方で正しく使えば、緊張しているひとを安心させてあげることもできるのだ。