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誰のためのヌードルハラスメント議論か

エッセイ 文化の違い

 いま、「ヌードルハラスメント」なる言葉が話題に上がっているようだ。日本人がラーメンをすする音が、日本に観光に来た外国人にとっては「音のハラスメント」になっているらしい、ということだ。まさに、以前、イギリスでわたしが気にしたことに近い。

 話題の方向性としては、「麺をすするのは日本の文化なのだから、外国人に口を出される筋合いはない」というものと読み取れる。たしかに、外国でラーメンを食べるならまだしも、日本にいて、日本のラーメン屋でラーメンをすするなら、基本的にはこれまで通り食べるということで問題はなさそうに思える。郷に入っては郷に従う、ということわざが脳裏に浮かんだ人も少なくないだろう。「日本に来てラーメン屋に入った観光客なら、そこで麺をすすっている人を責めるのは良くない」「余計なお世話」という意見は、たしかに筋が通りそうだ。

 ところで、ヌードルハラスメント(noodle harassment)という言葉、どうも和製英語っぽい。実際ウェブで探ってみても、少なくとも英語では、上記の言葉がどこかで言及されているわけではない。日本人がラーメン屋でしかめっ面をする外国人を見かけて「これってヌードルハラスメントっていえるんじゃね?」みたいなノリで言葉を作ったような気もする。この言葉を使っている人が英語話者でも日本語話者でもないとしたら、誰が使い始めた言葉なのか調べられなかったけれど。

 仮に日本の中でしかヌードルハラスメントが話題になっていないとして、その現象はなかなか面白い。日本人が、自国の文化を少し離れたところから見て、それを批判してみて議論を巻き起こすという全体の流れは、自文化を理解するのに有効な手段のひとつだと思うからだ。もちろん、議論の形や仕方によっては、むかっ腹が立つひともいれば、傷つく人もいるかもしれない。だが、だからといって、こういう議論は「良くない」と一言で切ってしまうのはもったいないような機会なのではないか。

 

 別に、議論の内容自体は、「麺をすするのが嫌だと思われているだろう、ヌードルハラスメントじゃないのか」というものであっても、「日本人の家に行くと靴を脱がされるというのが欧米人には不快に違いない、シューズハラスメントだ」というものであっても、なんでも良い。自分たちにとってごく「当たり前」のことを「外国人には当たり前ではないのかも」と捉えてみて、そこから自文化について考察する、というプロセス自体が、自分たちの文化の理解を深めるし、そういう考えをきっかけに、他の文化の理解に考えが及ぶこともありえるだろう。

 文化の違いの話になると、話が単純な「良い・悪い」に分けられなくて面倒だから「よそはよそ、うちはうち」と切り捨ててしまう場面がしばしばみられる。でも、そこで思考停止するのではなく、かといってどちらか一方を擁護し、他方を攻撃や否定するのでもなく、何か、両者の間に横たわる違いや共通点への「気づき」の機会にできるとしたら。それは、面倒で無価値な議論なんかではなく、たくさんの人が触れるべきものになるのではないだろうか。わたしたちの議論のしかたが、論点の置き方が、試されているとも言えるだろう。