「語らない」ということ

 今日は、ひとつの大きな一段落の日だった。

 人と濃く交わって感じるのは、いろいろな人が秘めた思いを抱えていて、機会があれば語りたいと思っていること。でも、なんらかの理由で、語らないという選択をしているということ。もう一つ気付いたのは、「語らないという選択」も、人格を表す一面になるということ。

 

 「語る」こと、「語らない」こと。その選択は、案外、自分一人の決心だけでどうにでもなるというものではなく、周りにどういう人がいるか、ということも強く関わる。

 そうだとしたら、わたしは、好きな人たちのために、うんと聴こう。うん、うん、と頷きながら。一緒になって驚いたり、悔しがったりしながら。時には反論もしてみながら。とくべつ、何かを解決するチカラがあるというわけではない。卓越する人脈を掌握しているわけでもない。ただ、聴く。ありがたいことに、聴くチカラは、もっている。

 そして、語らない、という選択をした人には、寄り添おう。「語らない」というのと「何も感じていない」というのは、イコールではない。ただただ寄り添うことしかできないけれど、寄り添える人にはなりたい。寄り添っているということを言葉にして伝えられる人でありたい。

 

 ウェブといった環境が発展して、スマホなどのハードも発展して、たくさんの人が「発信」できる機会が増えたことで、「発信」の選択をした人の意見ばかりを目にするようになった。ウェブで何かを探せばある意見が「みんなが賛成する大多数の意見」のように見える。けれども、その裏には、それぞれの理由で、ウェブに書き込みたくない人、書き込めない人たちがいる。

 そういう、語らない人たちと、どうやって生きていこう。世の中、わたしみたいに毎日ブログを書く人ばかりではないのだ。語る人も語らない人も、どちらもを優しく抱き寄せられたらいい、とたくさんの人にも思ってほしい。平和な世界を。