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ペルソナ5をプレイ:現実はどこへ

ゲーム エッセイ

 この連休、夫が去年買った、「ペルソナ5」というゲームで遊んでいた。ネタバレは避けたいし、詳しいことは書かないが、主人公たちが「現実世界」と「認知上の世界」を行き来しながら世直しをしようとするストーリー。わたしはまだこのゲームを始めて序盤の方なのだが、夫はクリア済みで、時々わたしもプレイ中に一緒にいたから、どんなゲームかは大体もう知っている。シナリオは分かった上でそれでも楽しめそうだと思ったから、わたしも自分で始めてみたというわけ。

 ゲームを進めながら、「現実世界」と「認知上の世界」とはどういうものかなあと考える。物質世界/精神世界とも言い換えられるのだろうか。横文字にするなら、リアル/バーチャルになる?ちょっと違うかなあ。この辺のボキャブラリーには疎いからもっと調べなければなのだけど。

 ゲーム上の話から離れた、日本の「リアル」な社会に目を向ける。例えば、「リア充」という言葉が使われるようになって、もう10年くらいになるそうだ。もともと2ちゃんねるで成立した概念・言葉が、その後ブログやTwitterで使われるようになり、ギャル語として扱われるようになったとのこと。また、言葉の意味としても、「インターネット上のコミュニティに入り浸る者が、現実生活が充実していないことを自虐的に表現するための対語的造語」だったのが、「恋愛や仕事の充実ぶりに対する妬み」に変化していったそうだ(参照元ウィキペディア)。使われる場面や意味が若干変化しているとはいえ、基本的には「リアルが充実していない(残念な)人」が「リアルが充実している(羨ましい)人」に対して言う、自虐的だったり嫉妬だったりという感情がにじむ言葉だ。「残念な」とか「羨ましい」というのは便宜的にわたしが足した言葉だけれども、実際、そういうことだと思う。ただ「リアル」か「ウェブ」のどちらが自分の居場所なのか、ということだけでなく、「残念な」とか「羨ましい」といった優劣の価値観が共有されているからこそ、自虐的に、嫉妬的にこの言葉が使われているのだ。

 ウェブが大衆に使われるようになり、あらゆる場面でバーチャルな体験ができるようになった今、割合として「非リアル」の体験が増えている。VRがもっと普及すれば、さらに変わるだろう。世の中のエンターテインメントや人間関係がこうやってどんどん非リアルの場に持ち込まれるとしたら、これからますます「リアルが充実していない(残念な)人」が増えてしまうのだろうか。

 結論からいえば、そんなことはない、と思う。というよりは、「リアルが充実していない」ことが「残念」とは限らなくなってくると思う。技術の発展とともに、社会の価値観も変わるのだから。

 とはいえ、やっぱりリアルの「自分」も大切にしたい。ゲームの中で「現実世界」と「認知上の世界」を散々行き来したあと、気づけばわたしもぐったり疲れていたので、近くの温浴施設に行ってジャグジー風呂とか海水風呂とかに入って、物質的な自分の体を癒した。そして休憩エリアで夫とあれこれおしゃべりした。やっぱり一緒にいる家族と他愛もない話を楽しむのは嬉しい時間の過ごし方だ。たぶん本当は「リアル」と「非リアル」のどちらが自分の居場所なのかは関係ない。結局のところ、自分が充実していると感じられるかどうかなのだろう。