音に囲まれて

 わたしは、音に敏感だ。神経が高ぶっているときは、隣の部屋にある時計の秒針の音すら、耳障りに聞こえてしまう。今は、エアコンの機械音、時計の音、冷蔵庫の音、自分のタイピングの音、外で車が走る音、自転車のブレーキの音、そして、近くの三味線教室のお稽古の音が聞こえる。近くに小学校があるので、朝や昼間は、子供の元気な声がする。運動会の日は一日中音楽が聞こえるし、盆踊り大会の日も、賑やかな太鼓の音が響く。今日なら、もう少し遅い時間になれば、近くの飲み屋から出てくる酔っ払いの笑い声も聞こえるようになる。週末は、アパートのお隣さんが洗濯機を回す音も聞こえる。絶対音感があるわけではないが、無意識に、いちいちそういう音を聞き分けて暮らしていることがおおい。

 今の時代、うるさいから、という理由で、近所に保育園が作られるのを反対する人が多いという。わたしだって音に敏感な方だから、反対する意見もわからないではない。バスの中で子供が大声を出しているときにも、勘弁してほしいと思ってしまう。子供が悪いというよりは、どちらかというと自分の耳が忌々しく感じられる。もう少し、余裕をもちたいものなのだけれど。とはいえ、気にすれば気にするほど音がきになるようになるので、もう、そういう体質なのだろうと思うことにしている。

 遡れば、日本は襖や障子で区切るだけの、音が筒抜けの家で一家が暮らしていた歴史が長いのではないか。落語なんかでも、音が筒抜けであることから生まれる笑いがある。音に対して、おおらかな社会だったということだろうか。

 「静けさや岩にしみ入る蝉の声」という句があったり、フクロウの鳴き声を聞き取って「五郎助奉公」と聞き做しを感じとったりと、周りの音に耳を傾け、親しみを感じていた風土が日本にはあった。「音」とは少し視点は変わるが、日本語に擬音語・擬態語が多いのも面白い。雨が降る音も、しとしと、じとじと、ざあざあ、ざんざん、ぱらぱら、など、ほんとにさまざまに聞き分け、表現し分けている。

 わたしも、せっかく音に敏感なら、それを感じ取り、表現してみれば良いということだろうか。それが何を生むのかは、わからないけれど。