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「アイデンティティ」

エッセイ

 わたしは、「アイデンティティ」という言葉に、中学生の頃に出会った。学校の、校長講話で、ほとんど毎回、校長先生が話題に出していた言葉だった。「アイデンティティ」という英語を和訳するなら「自己同一性」である、自分が自分であるということだ、というような話で、せいぜい13歳くらいのわたしは、今思えば、全然意味を理解していなかったように思う。せいぜい、「そりゃあ、わたしはわたしじゃん」くらいにしか思わなかった。校長講話のあとは、必ず感想か何かを書かされたのだけれど、大抵、ちょっと優等生的なコメントを二つか三つ書くくらいで終わって、ほんとに深く考えたことはなかったように思う。

 中学校の英語の授業では、生徒が一人一枚ずつ、「アイデンティフィケーション・カード」というのを手書きで作らされた。確か、スナップ写真も貼って、名前と、クラスと、といった情報を書き込むようになっていたと思う。裏には、サインもした気がする。それを筆箱に入れて、授業の時には机の上に出しておくことになっていた。この時も、アイデンティフィケーションというのはなんだかよくわからなかったし、ただ先生が生徒の名前を覚えられないからとしか思っていなかった。よく考えれば、アイデンティフィケーション・カードとは、つまり略せばIDカードであり、身分証明書ということだった。自分の身分を明らかにするためのカードだった。

 自分の身分を証明するのに、日本では未だにハンコというのが大切だ。マイナンバー制度というのが導入されたとはいえ、今でも、ハンコがあれば手続きが進められてしまうことというのは存外ある。わたしがわたしであることを、手のひらに収まってしまう石の塊のようなものが証明してしまうというのは、不思議だ。

 一方で、海外の、サインが証明になるというのも面白い習慣だ。映画やドラマでは、困りに困った挙句、人のサインを偽証してしまうシーンもみたことがあるし、人の筆跡だって変わりうる。それに、例えば事故や病気で、手が思うように動かなくなったら、それは自分が自分でなくなったということになってしまうのか。それも、変な話だ。

 最近、指の腹が映った写真があれば、指紋がコピーされるリスクがある、というのを聞いた。悪意があれば、人になりすますなんてあまりにも簡単なのだと思わされてしまう。安易に信じすぎないのが、大切なのだろう。

 迷惑メールで、「とある芸能人のマネージャー」という人からのメールというのがきていた。「事務所にバレるとクビになるから内緒だけれども、その芸能人と友達になってあげてほしい」みたいな話だ。この手のメールを、自称「EXILE」からも、自称「嵐」からも受信したことがある。どこかに信じてしまう人がいるから、こういうメールが絶えないのだろうか。ウェブへのアクセスが広まるほど、アイデンティティの証明は難しくなる。匿名でブログをやっているわたしは、さあ、どうやって「わたし」を保っていこうか。