学校掃除

 大学生の頃に研究していた、日本の清掃・掃除文化の一環として、一時期学校掃除について調べていた。日本の学校教育を受けた人のほとんどが、学校掃除の経験がある。だから、誰でもインタビュイーになれた。それでとにかく身の回りの色々な人に、学校の掃除について興味がある、ということを触れてまわり、エピソードを話してもらったのだ。身構えられたくないから、卒論の研究のため、なんて最初は言わない。ただ、興味があることとして、学校掃除の話題を出し、どんな思い出があるかなどを軽く聞き、面白いエピソードを持っていそうだなと思えば、「実は卒論でも学校掃除の研究を扱おうと思っていて、だから詳しく話してほしい」というように伝えた。

 それだけじゃない。地元の小学校、中学校にお願いして、実際に生徒の掃除の時間を見学させてもらい、何人かの先生にインタビューをさせてもらった。中学校に至っては、汚れを見つけたらすぐに磨けるように、生徒一人ひとりが小さな瓶に「マイ・クレンザー」を持つということになっていた。毎学期、家から一人数枚ぞうきんを持ってくるという習慣はあったけれど、マイ・クレンザーは持ったことがなかったから驚いた。小学校で話を聞くと、学校で掃除をさせるのは、「ものを大切にする心を学んでほしい」という理由と、「ほうきで掃くとか、雑巾を絞るとか、そういう身体的な動作を今の時代では家庭ではやらなくなったから、学校で身につけてほしい」という理由が出てきた。ただ「自分たちが使ったところは自分たちで綺麗にしましょう」だけじゃないのだ。よくよく思い出してみると、理科室や家庭科室などでは、「来た時よりも綺麗にして教室に戻りましょう」とすら言われた気がする。行動としては、とにかく「綺麗にする」ということをなんども繰り返し実践させられた。

 掃除機もいろいろ発展しているし、ましてや掃除ロボットは雑巾掛けまでしてくれる時代だ。それでも、生徒は「ほうきと雑巾」というのは興味深い。「修行」的な面も見えてくる。実際、お寺では徳の高いお坊さんほど、トイレなど「汚い」ところを掃除するというところもあるそうだ。ただ汚いところを綺麗にする、というだけでなく、瞑想とか、何か「見えるようになる」「気づくようになる」とか、そういう精神や魂の訓練に、掃除は使われているようなのだ。そのためには、掃除機も、ましてや掃除ロボットも、「修行」にならないから、使いたくないのだろう。

 今や、ビジネスの世界でも、掃除の話題を聞く。社長自らが会社のトイレを素手で掃除するようになってから商売がうまくいくようになったとか、そういう話だ。あれこれ理屈をつけられて、読者はなんとなく「そうかもな」と納得してしまう。

 学校で繰り返し実践した掃除だが、オトナのわたしたちが誰でも、同じように掃除が上手というわけではない。「中・高校と合わせて6年間も英語を勉強しているはずなのに日本人は英語が苦手」とかよく言われるが、それを言ったら「小・中・高校と合わせて12年間も掃除を実践しているはずなのに、掃除が苦手な日本人が多い」と言えるかもしれない。実際、「ゴミ屋敷」などがテレビに取り上げられるたびに、「清潔」の教育ってなんだろう、と思わされる。

 キレイ・キタナイの判別は、オトナにとって、もはや生理的、直感的に行なっているように思われる。何かをキタナイ!と思うのに、その前に理屈なんて滅多に出てこない。でも、この判断基準は、わたしたちがオトナになるにつれて、文化によってジワリジワリと教え込まれたものだ。どうして自分は何かを綺麗と思い、何かを汚いと思うのか。それを改めて辿ってみると、自分が育ち過ごしてきた「文化」を垣間見ることができるのだ。