情報カードがおとも

 学生時代の私の論文やらエッセイやらを書くときの強力な味方は、A4のコピー用紙を四つに切った、情報カードだった。大学の売店で、しっかりした紙で罫線も入った情報カードも売られていたけれど、私は研究室の端に積まれた、配布物のあまりとかミスプリントとかで片面が既に印刷されている紙で十分だった。それを、裁断機で四つに切って、ポーチに入れる。100均とかでも売っている、脂取り紙とか小さい鏡とかリップクリームとかを入れておく、マチの少なめのポーチで、A6に切った紙がピッタリ入るサイズのものがあったので、とにかく白紙のものも、何か書いたものも、全部そこに入れていた。

 大学には一応、学生が使っていいことになっている専攻の文化人類学の研究室があったけれど、そこを使っている人はほとんどいなかった。そこに目をつけた私は、先生とも仲良くなり許可ももらったうえで、ほとんど一人で研究室をキレイに掃除し、本を並べなおし、そして一人で使っていた。どこからかホウキと雑巾を調達してきて、授業のない時間に一人で雑巾がけしたものだった。今考えれば変な学生だ。

 六人くらいで囲めるサイズの大きな机は、情報カードを広げるのにピッタリだった。私はそこで、構想段階の卒業論文に書けそうなことを、カード一枚につき一項目としてカードにガンガン書き出した。順番も全く考えないで、思いついたところから。最初はほんとうにブレインストーミングのような感じだった。どんな本にどんなことが書いてあった、という情報や、インタビューで印象に残った言葉、参与観察で気づいたこと、ネットのニュースで見た情報など、切り口も抽象度もバラバラだったけれど、とにかく一枚につき一項目というルールだけ守った。

 いよいよ章立てを考える段になると、強かった。カードは手元にある程度の数できているので、その広い机にひたすら並べる。近い項目同士で分類したり、この話とこの話は繋がりそう、とくっつけてみたり。そうしているうちに、「ああ、こういうことも書かなければ」と気付くと、さらにカードを一枚追加。そうやって一人でカードを並べ替えながら考えるということを繰り返して、区切りの良いところで、上から写真を一枚。上から下、という流れだけではなく、横の繋がりなども含めて並べていたので、写真として残せるのも便利だった。今日は帰るとなれば、最後にもう一度写真を撮ったらとりあえず上からカードを重ねていって、また明日、写真の通りに並べ替えれば今日の続きから始められる。もともとは捨てられる予定だった紙の裏を使っているのだから、惜しまず次々に新しいカードを作り、不要と感じたカードは捨てた。

 広々とした紙にマインドマップを書いてみたり、カードの大きさを名刺サイズくらいにしてみたり、パソコン上でテキストボックスを並べ替えてみたりなど試してみたけれど、結局はA6の紙のカードが一番良い。パッと見て十分な大きいサイズの字が書けるし、並べ替えるのに大きすぎない。デジタルでは、手でつかんで並べ替える感じとか、手元にカードが溜まっていく感じがなくて、しっくりこなかった。

 アカデミックイングリッシュを勉強したとき、ライティングで最初に言われたのが「ひとつのパラグラフにはひとつのメッセージ」というもの。つまり、ひとつのパラグラフに複数のメッセージを詰め込んではダメだし、内容のないパラグラフも書くなということ。それが、私にとっては「ひとつのカードをひとつのパラグラフにすれば良い」ということになって、分かりやすかった。多分、英語での論文を書くのに非常に向いているやり方なんだと思う。

 卒論を書いたときも、修論を書いたときも、このカードは大量に作って並べてとしたけれど、どちらも、どこかにいってしまった。多分、捨ててしまった。フィールドノートとは違って、フィールドワーク先の個人情報なども含まれてはいなかったけれど、論文を出してしまったら、お役御免だったのだと思う。大量のカードの結晶である論文ができた時点で、「カードを手元にとっておきたい」という気持ちは、なかった。非常にあとぐされのない関係だ。

 最近は論文を書くことがないし、文章を書いてもそんなに長くはないから下準備もカードではなくノートで事足りているけれど、ネタ集めも含めてまたカードを始めようかしら。カードが溜まる感覚は、もはや「気持ちよさ」になっている。