読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

文章力を考える

 出版界は苦労している。密度のある本がなかなか売れないそうだ。本屋へ行き、ぱらぱらっとページをめくり、ボリュームがあることを感じると、「読みきれないかも」と弱気になり、本を棚に戻してしまうのだという。だから、ページあたりの文章量は減り、ぱらっとした、余白の多めの本の方が良い。一文も短く、わかりやすい言葉遣いが良い。逆にいうと、ページにみっちりと文章が書かれた本は、好かれないということだ。

 

 かたや、世にメッセージを伝えるために、文章力を鍛えている人たちがいる。書く側は、流麗で詩的な文章を磨く人、やわらかでわかりやすい文章を目指す人、理路整然とした勘違いをさせない文章を好む人などさまざま。文章のスタイルはそれぞれだとしても、やっぱり中の情報は、ある密度を持ってしまう。というより、世に何かのメッセージを伝えようとすると、ある密度を持たざるをえないのだ。

 かたや、太字で大きいフォントばかりが並ぶ自己啓発書や、行換えの多すぎる携帯小説アメブロの書籍化みたいなものばかりを手に取る読者がいる。ぱきぱきと一文が簡潔で、どこから読んでも大丈夫といった本の方が親しまれる。もっとも、それらが悪いわけではない。そういうライトな読書も結構。でも、密度のある本を避ける人が増えているというのは、残念だ。行間や余白といったレイアウトによる選り好みが、文章の中身の判断に勝ってしまっているということなのだから。

 

 一文ごとに、行換えをする文章というのをよくみるようになったと思う。それをするだけで、ページあたりの文字の密度が減る。「文章」というものの掲載の場が、紙面に限りのある本や雑誌から、ブログなどウェブのコンテンツになっていっている中で、「紙面の限り」という物理的な制約がなくなっている。だから、ふんだんに行換えができるようになってしまったのだ。そして、スマホで文章を読むときなどは、確かに文章の密度が高いと読みにくい。そういう環境の変化が、文章の体裁や中身にも影響しているのだろう。行換えをどんどんしていくならば、一文も短くなるし、その中に使う言葉も簡単なものにせざるをえない。そんなにスクロールしながら内容を覚えていられないのだから。こうやって、コンテンツはどんどん簡潔でシンプルな文で構成されるようになっていく。

 とはいえ。ある程度内容の複雑なことを伝えたいときなどは、そう一文一文を短くもできないし、行換えだってしていられない。世にメッセージを伝えたい人たちがいかに読みやすいよう文章力を磨いても、受け取る側が投げ出してしまっては仕方ない。出版社の人たちの、本が売れない嘆きの奥には、日本の知的な活動はこれからどうなっていくのだろうという大きな問題が見える。

 

 わたしだってライトなコンテンツは大好きだ。でも、一方で読み甲斐ガッツリ系の本も楽しい、という感覚を持つ人が減っているなら、寂しいのは寂しい。やっぱり、ライトなコミュニケーションだけじゃなくて、しっかりした議論もできた方が良い。LINEなどの一言ずつのやりとりばかりがコミュニケーションの大半になってしまうとしたら、政治もビジネスも、成り立たなくなってしまうのだから。国会中継のヤジなんかを聞いていても・・・まずはしっかり相手の議論を受け取り、それに対して返答するという、ライトでないコミュニケーションがいかに大切かということを考えさせられてしまう。