上野といったら

 買い物で上野に行った。上野はやっぱり外国人観光客が多く、案内も多言語で掲示されているところが多い。地下鉄の駅の一角では、ロボットのペッパー君が立っていて、案内の役割をしていた。しかも、上野といったら上野動物園上野動物園といったらパンダ、ということなのか、パンダの格好(ペイント?)で。

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 先日、テレビでアメトーークの「絵心ない芸人」の回を観て、絵心ない人ってのは(わたしも他人のこと言えないが)動物に眉毛を描きたくなるっていう傾向を知ったけれど、このペッパーパンダも、眉毛のせいで、なんかうまくいっていない。いや、眉毛だけが原因じゃないだろう。パンダにしては顔が縦長すぎるとか、黒色が半端とか、そういうところもある。でも、このいかにも困ったような眉毛は、案内人としていただけない。全く、頼りにならない見た目なのだ。

 困り眉毛に、小さいおちょぼ口。どこを見ているかわからない目。やたらと良い姿勢。その全てが、パンダから離れている。コロリと丸いパンダのイメージは、何処へやら、だ。

 でも、この不思議な顔つきは実際目立つし、印象にも残る。一つの、わたしには欠けている、センスなのかもしれない。東京オリンピックの際も、このペッパーパンダが迎えることになるのだろうか。池袋だったらフクロウの格好だったりして? うーん、本音をいうなら、もう少しかわいい姿、案内として頼もしい姿をしていてほしい。

言葉遣いのこと

 今日もスポーツジムへ行って汗を流した。サウナに入ろうとすると、中から賑やかな声が。

 A「おばちゃん、って言われたのよ!もう少し言い方ってのを考えてほしいよ!」

 B「そうよね、呼ぶにしても「すみません」で良いのにね」

 A「そりゃあ、おばちゃんかもしれないけれど、お姉さんとか、もっと良い言い方あるでしょ!」

 アラサーになろうとしているわたしも、気になる話題だ。サウナに入り、盛り上がる女性たちを見てみると・・・

 

 わたしの母より年上くらいの女性数名。60代中頃くらいだろうか。どうやらお店をやっている人で、客で来た女子学生に、「おばちゃん」呼ばわりされて憤慨していたのだ。「おばちゃん、○○ください」そんな風に言われたらしい。

 「わたしだったら、相手の年齢にかかわらず「お姉さん」と呼ぶけどねえ」という女性に対して、相槌を打つもう一人は「でも、お姉さん、っていうと水商売呼ばわりしてるみたいだしねえ」と返す。

 わたしは、彼女たちに声をかけるときにわざわざ「おばちゃん」と呼びかけたりはしないけれど、それでも内心では「おばちゃん」だと思っていた。反省した。認識を、改めようと思う。とはいえ、「おばちゃん、○○ください」、そんなに悪い言い方だろうか? 確かに憤慨していた「お姉さん」は、スポーツジムへも来るくらいだし、健康とか美容とかに関心があるのだろう。それでも、「○ください」の部分はちゃんと丁寧語が使えているし、そんなに憤慨するのは大げさな気もする。それを、30歳前後の、まさにお姉さんとおばちゃんの境目にある人が怒るのはともかく、還暦過ぎの女性が、というのは、やっぱりちょっと不思議だった。一通り自分の子供も独立させたくらいの年齢でも、「お姉さん」でありたいんだなあ。わたしも、30年後、同じことを言っているのだろうか? 「お姉さん」と「おばちゃん」の間に入るようなことばがないのが悪い、という人もいた。確かに、そうかもしれない。外国風に、「マダム」とか、「マム」とか、「ミズ」とか、そういう感じの言葉も、外来語として日本に馴染む気配は今のところ無い。

 

 散々「おばちゃん」と呼ばれたことを愚痴った後は、街で見る若いママたちの言葉遣いについても話し始めた。子どもを叱るときの言葉遣いが、あまりにも乱暴だ、と。お世辞にもあまり柄の良い街ではないけれど、「お姉さん」たちは、結構言葉遣いにうるさいらしい。確かに、口が悪い感じの人は街に多い。

 でも、以前からネットや本、新聞などでも書かれているけれど、場面場面に合わせた敬語が使えていない人が多い、必要以上に丁寧すぎるという人もいる。レストランに入ったときの店員さんへも、仕事の取引先へも、同じように最上級の敬語を使う。「丁寧すぎる」というのが不自然だという感覚に欠けているということだろう。

 大学にいた頃、英語の先生に、大学の教員にメールを送るとき、肩書きがわからない場合はとりあえず「Professor」とつけなさい、と言われた。丁寧にしておけば相手の機嫌を損ねることはないから、ということだった。とにかく多め、多めに丁寧にしておけば良い、という風潮は、日本だけのものじゃないのかもしれない。このアドバイスをくれた先生は、アメリカ人だった。敬語のルールが複雑な日本語だからこそ、敬語の使い方が良いとか過剰とか言われるようにみえる。でも、日本語ほど敬語の表現が多くない英語を使う社会でも同じような風潮が見られるのだとしたら、興味深い。

だいがくいも

 人へのお土産に、大学芋を持っていくことが増えた。浅草に、美味しい大学芋が買えるお店があるのだ。大抵、喜ばれる。芋も美味しいが、たっぷりとかかっている蜜が、スプーンですくってそれだけで舐めたくなるくらい、旨い。蜜の甘さに、ゴマの香ばしさが漂い、歯に触るゴマの歯ざわりも小気味良い。

 もともと赤門とか早稲田大学とかの近くで揚げた芋に蜜をかけて売るようになったから、「大学」芋と呼ぶらしい。どうも不思議な名前だと思っていたけれど、大学の近所で売られたからなのか。じゃあ、もし浅草が発祥だったら、観音芋になっていたのだろうか?

 芋に対して、蜜をたっぷりかけるから、多くの場合蜜が余る。そうすると、翌日に自分で芋を買ってきて家で揚げて、またその蜜に絡めて大学芋にする。実家に大学芋を買って帰ると母がそうするようになった。先日また地元に戻ったのでよく可愛がってもらっていたお家にも買って帰って、たいそう喜ばれた。よく考えると、石焼き芋は売ってても、大学芋ってあまり売っていない。自宅ではふかし芋の方が多い。そうすると、自分で全部作らない限り、美味しい大学芋って食べる機会がないのかも。冷凍の大学芋も売っているけれど、やっぱり、冷凍ではあのたっぷりの蜜を楽しむと言うわけにもいかない。そうすると、やっぱりお土産にちょうど良い食べ物なのかも。

 

 オススメは、二店舗ある。一つは、さつまいも専門の老舗、「千葉屋」。駅から少し離れてしまうのが玉に瑕だけれども、とにかく味が絶品。ゴマもたっぷりかかって、ついいくつも食べてしまう。

 もう一つは、「おいもやさん」。ここは、テレビでも紹介されるようなお店で、こちらも明治9年創業という老舗。季節によって、その時美味しい芋を使って大学芋を作っている。ここはオンラインでも売っていて、お取り寄せができるようだ。

 

 そういえばわたしの生まれは千葉の幕張なのだけれど、通学路に、小さい「昆陽神社」というのがあった。江戸時代、青木昆陽が幕張の地でサツマイモの栽培を試し、飢餓対策として大いに貢献したことから、ここに祀られている。以前は古くてほんとに小さい神社だったのだけれども、ある時綺麗に新しくなり、また場所も移動して広くなった。

 小学生の頃は、近所の農家さんの畑をお借りして、芋苗植えと、芋掘りをさせてもらった。幼稚園の頃は、園庭の一角に畑を作って、サツマイモを栽培して、やっぱり芋掘りをした。それを一人数本ずつ、持ち帰らせてくれるのだ。そう考えると、幼い頃からサツマイモに親しんできたんだなあ。

 サツマイモに縁を感じると、さらに大学芋も美味しい。多くの人の命を救った食べ物なんだ。ありがとう、ありがとう。

ヒガシのヨッパライ

 金曜日の夜。おっさんたちは、酔っ払う。この季節だから少ないとはいえ、道や駅のベンチに座り込み、周りの人に絡んだり、寝ちゃったり、散らかしたり。今日の帰り道も、そんな感じだった。

 あまりジロジロみるのは良くないと思うからあまり凝視はしないけれど、耳は情報を拾う。よーく聞いていると、ひとつ、多くの人がいうことばが。

 「バカヤロウ」

 目の前を通った人にも言うし、声をかけてきた駅員さんや、お巡りさんにも。

 「バカヤロウ」

 「バカヤロウ」

 

 「バカヤロウ」

 

 あの人も、この人も、そうなのだ。若い酔っ払いの人はそうでもない気がするけれど、一定の年齢以上の人は、酔っぱらって座り込むと、やたらと呂律の回らない「バカヤロウ」を連発する。酒の作用でうまく働かない思考が、周りの状況を理解できずに、とにかくバカヤロウ、ということなのだろうか。酔ってゴキゲンな感じの人も、怒ったりどなったりしている人も、調子は違っても「バカヤロウ」なのだ。

 でも、この傾向は、関東の、あるいは東京のものなんじゃないかという気もする。日本では千葉と東京にしか住んだことのないわたしには、テレビといったメディアくらいしか情報源がないけれど、例えば関西系のお笑い芸人やタレントが「バカヤロウ」と言うのはほとんど聞かない。「バカヤロウ」といえば、やっぱり、ビートたけしとか、そういう、関東、東京圏の人なイメージだ。

 じゃあ、他の地域のヨッパライは、何をいうのだろう。関西と関東、という二分法だけじゃなくて、きっと、東北とか、九州とか、日本の地域によって、ヨッパライたちがいう「バカヤロウ」の代わりの言葉があるんじゃないか。それは「アホ」とかそういう言葉かもしれないし、「バカ」とか「アホ」とは違う意味合いのものかもしれない。でも、わたしにはわからない。

苦い春

 今日は東京でも雪が降るくらい寒かった。寒いおかげで夕方行ったスポーツジムは空いていて、思う存分マシンを使えた。明日は筋肉痛だろうか。やっぱり、寒いし足元も悪いしで、来ていない常連さんも多かったけれど、来ている者同士は「お互い寒い中頑張ったね」という感情が共有されるようだった。誰も、口に出しては言わないけれど。

 フェイスブックをやっていると、時々「一年前の今日はこんなことしてましたよ」というのを表示してくる。うざったいと思うことも多いけれど、今日は少し嬉しかった。去年の今日、五つのふきのとうを採ったという写真だった。

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 今日はこれだけ寒かったけれど、春は近づいているんだ、と思えた。実際、今の寒波が過ぎれば、結構暖かくなるんじゃないだろうか。

 ふきのとうは八百屋で並んでいることもあるけれど、やっぱり自分で採る方が、おいしさは倍増する。蕗味噌にしてもいいし、ただ刻んで生のままお味噌汁に散らしても良い。もちろん、天ぷらは格別。じわりと口内に広がる苦味が、春を感じさせる。バレンタインやホワイトデー、ひな祭りなど、「甘い」イメージのイベントが多い季節だけれども、野の草の味を知っているわたしは、うららかで暖かで甘いだけが春じゃないという秘密を知っているのだ。

共感

 コミュニケーションについて語られるとき、なにげなくつかわれることばに、「共感」というのがある。「共感していることを相手に伝えることが大切」、「共感を呼ぶようなことを伝えよう」そういうことを聞くし、言うこともある。でも、そもそも「共感」とはなんだろう。なにかについて、同じような感情を抱かせること。でも、同じような感情を抱かせるためには、価値観とか、知識とか、経験とか、そういう前提をある程度共有しておく必要があるだろう。

 文章を書くうえでも、「そうそう、そうだよね」と、共感を呼べるような何かが書けたら良いなと思う。物語を読んでいるときも、登場人物に感情移入できるのは、共感できるなにかを感じられるときだ。悲しみや、痛み、悔しさ、喜び、そういう感情を共感できたとき、わたしは、もう物語の主人公と自分になっている。

 物語にしろ、エッセイや評論にしろ、絵画や映画も、そういう「共感」を目指して作られているもの、多いと思う。共感や、発見。そういうところをわたしも求めたい。

 

 そう思って、とりあえず「共感」とググったら、アマゾンで共感、売っているらしい。こんな風に簡単に変えたら、良いのに。

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クリームティー

 イギリス留学をして、「イギリスの食事はマズい」というイメージは「その通りだ」と思える出会いと、「いやいや、美味しいものもあるぞ」と認識を改めるようになった出会いがあった。大学のカレッジの食堂のサラダは、結構美味しい。種類も豊富だし、鯖の燻製が気に入った。でも、チーズグラタンは巨大すぎる上に脂っこく、完食がつらかった。フォーマルディナーは結構気合が入っていて、美味しいものが多い。

 カレッジの食事から遠ざかってみる。チェーン系のカフェのサンドイッチは美味しくないものも多かったけれど、個人のやっているカフェのパンは美味しい。そして何より、スコーンだ。あんなにシンプルな食べ物なのに、スコーンが美味しい。店によって美味しいところとイマイチなところがあるが、ひどいというところは滅多にない。大抵、クロテッドクリームと、ジャムが一緒にくる。それをたっぷりとつけて、食べる。いかにもカロリーの高い食べ物だけれども、スコーンの時は遠慮しちゃいけない。ちょこっとだけつけるなんて上品なことはせずに、美味しい量だけつけるのだ。

 「アフタヌーンティー」という言葉は日本でも耳にすることが増えて、三段がさねのお皿に、サンドイッチ、スコーン、ケーキが載っていて、紅茶と一緒にいただける。結構高級な軽食である。でも、紅茶とスコーンだけという「クリームティー」はなかなか日本でメジャーではないようだ。「クリームティー」は、紅茶に牛乳の代わりに生クリームを入れたもの、ではない。アフタヌーンティーの一種ではあるのだけれど、ただ紅茶とスコーンをいただくその組み合わせのことを、クリームティーと呼ぶことが多いようだ。だいたい、日本のジャムはイギリスのものよりもうんと甘さが控えてあるし、そもそもクロテッドクリームがあまり流通していない。成城石井みたいなところで売っているクロテッドクリームは、ちょこっとしかないのに、高い。甘さ控えめのジャムとスコーンでは、紅茶に対して物足りないのかもしれない。スコーンそのものが手軽に作れても、やっぱりイギリスのように戴くわけにはいかないということだろうか。

 

 スコーンといえば、コイケヤのスナック菓子に、スコーンというのがある。「和風バーベキュー味」のスナック。コイケヤのウェブサイトによると、こちらのスコーンの名前の由来は

一度聞いたら忘れられない響きと、『スコーン』とヒットするように願いを込めて付けられました。

ということらしい(コイケヤ お客様からのご質問一覧)。「スコーン」とヒット、なんだかスナックのような軽やかさがあって、良いなあ。イギリスのスコーンも好きだけれど、こっちのスコーンも好き。これと紅茶でクリームティー・・・とはさすがにいかないけれど。