ネタ探し

 わたしが落語を好きになったきっかけの一つは、柳家小三治師匠の『ま・く・ら』という本とCDだ。今の柳家小三治師匠は10代目で、落語協会の顧問であり、2014年には人間国宝に認定された大注目の人。独演会のチケットはなかなか取れないけれども、お正月やゴールデンウィークなどの特別興行の時期に寄席に出られる時があるので、そういう時に聞ける。ホールで行われた独演会にも一度行ったけれど、やっぱり寄席の方が良かった感じがする。

 その小三治師匠は、噺が上手いのはもちろんだけれども、噺の前にする「枕」が面白いことでも知られている。それで、『ま・く・ら』という本にまでなっているのだけれど、その中でも、「駐車場物語」という、音声にして40分に渡る話が、ものすごく、面白い。「ものすごく」なんて言葉は簡単すぎて似合わないくらい。小三治師匠が借りている駐車場に住み着いた、招かれざる住民を巡る話なのだけれど、描写も面白ければ、話す間の取り方や抑揚なんかも含め、ほんとに、一つの世界観になっている。

 わたしが小三治師匠の立場だったら、なんて想像はしても仕方ないことだけれど、でも、仮にそういう立場だったら、「駐車場物語」のような状況に出会ったら、やっぱり「これは面白いネタになるぞ」とは思うだろう。でも、そこから「よし、この一連のことを一つのネタとして練ろう」と思う、そのタイミングや、そのネタの範疇に入れるディテールの細やかさは、きっと違う。「駐車場物語」では、面白いと笑える場面がいくつも出てくる。わたしなら、一つの「面白い」を見つけた場面でそれを一つのネタとしちゃって、次の事柄が出てくるまで待てないんじゃないか、と思う。もちろん、「駐車場物語」がCDに収録されたより前にも、小出しのような感じでエピソードを語ったことはあるかもしれない。でも、その上で、40分に渡る一編の「駐車場物語」を改めて練るとなった時、それまでに起こったあらゆる出来事を繋げ組み合わせるには、わたしの目は荒すぎる。人間国宝と比べるのもおこがましいけれど。状況のディテールをすくい上げる網の目の細かさと、それで集めたネタを編み直す俯瞰の視点が、一つの物語を作っているんじゃないかと思う。

 明日で、このブログは150投稿になる。さすがに簡単に思い浮かぶようなネタは尽きてきた感じがして、毎日の生活の中で、エッセイにしたら面白そうなネタを探すアンテナを細かく張り巡らせている。「駐車場物語」の中心となるような大ネタはそうそう転がっていなくても、いつか何かを書き上げる時にそれを彩るディテールは、今目の前に転がっているのかもしれないと思うと、アンテナを立てずにはいられない。「ブログを書くこと」は、結果としてわたしのアンテナを活性化してくれているのだ。

 

 

情報の出し方

 文章を書くのも、人と話すのも好きな方だけれども、どうしても苦手なことがある。それが、情報を出すタイミングを読むこと。コミュニケーションの方法の一つに、大事なことをあえて言わないことで読者や聞き手にドキドキさせたり興味を引いたりさせるというものがある。推理小説なんかを例にとるとわかりやすい。物語は、基本的に時系列で進んでいく。事件が起きて、探偵が呼ばれて、関係者を調査し、解決する。でも、時系列の最初に当たる「事件発生」の時、犯人が明かされないのが普通だ(そうじゃないスタイルもある。「古畑任三郎」なんかは最初から犯人がわかっているのが面白い)。私は、推理小説でいうならば「犯人を伏せておくこと」が苦手なのだ。結論が言いたくて仕方ない。言わないでおくなんてできなくて、すぐに言ってしまいたくなる。これは、小さい頃からの弱点な気がする。

 小さい頃、なぞなぞを出し合って遊ぶということがあった。答えるのは好きだけれど、出題が下手だった。母に笑われたのを今でも覚えているのは、こんななぞなぞだ。

 

 「りんごだけど〜、赤くてまあるいの、なあんだ?」

 

 これは、「パンはパンでも、食べられないパンはなんだ?」の類似問題ではない。わたしの作った上記のなぞなぞの答えは、「りんご」なのだ。最初に答え教えちゃってるじゃん! というわけだ。

 こんななぞなぞを出すようなことはなくなったが、それでも情報を伏せておくのは苦手だ。これが上手になると、文章ももっと面白くなるのかな、と思う。日常の中から、それなりに面白いネタを見つけることは、それなりにできているだろう。でも、それをどう調理するか。それが今伸ばしたいことなのだ。

ひき肉作り

  以前知り合いにいただいた、アクリル毛糸で作ったアクリルたわしが便利だったのを思い出し、100均で買っておいた毛糸を取り出し早速編んだ。かぎ針編みは昔やったことあるから、ザクザク進む。キッチンの掃除に使う程度だから、本当に綺麗な四角形にならなくてもいいやと、とにかく編んだ。色は、コーラルピンク。サンゴのピンクということ。一段目が編み終わり、二段目が編み終わり、良い調子。でも四段目くらいになって、違和感。おかしい。この色、どう見ても生肉だ。光の具合で、部分部分が白っぽく見えるのも、ひき肉の脂身のところにそっくり。

 編み終わって、資源ごみに出そうと思って洗って袋に入れていた発泡スチロールのパックを出し、その中に編み終わったアクリルたわしを入れてみたら・・・

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 やっぱり。なんか、ひき肉っぽい。こんなはずじゃなかった。スマホのカメラで撮るとどうしても赤味を出すのが難しいのだけれど、実際もっとひき肉っぽいのだ。わたしは今日から、ひき肉でシンクを掃除するのだろうか。ちょっと抵抗はあるが・・・せっかく作ったので、使おうと思う。毛糸玉になっている時は、可愛いピンクで、全く “ひき肉感” なかったのに。不思議である。

猛禽キングダム

 自宅の徒歩圏内には、フクロウカフェが三軒も四軒もある。それだけでもすごいと思っていたけれど、今日、大きい通りから一本入った細い路地に、いかにも個人が経営しているという感じの、小さい居酒屋さんというか、飲食店を二軒見つけた。その二軒は隣り合っている。右の店名が「ふくろう」。左の店名が「イーグル」。フクロウカフェが何軒もあって、街角ではフクロウとワシが隣り合っているなんて、この街は猛禽キングダムなのだろうか。嘘みたいだけど、ほんとの話。ああ、写真を撮ってくればよかった。

空き瓶礼賛

 清掃や片付けといったことに関心を持つようになって、昔よりもモノを溜め込みすぎないようになったと思う。着ない服はチャリティーに出したりもしたし、読まない本のうち手放して良いと思ったものは、古本屋などに持ち込んだりもする。捨てるべきものは捨て、譲るべきものは譲って、一時期よりはモノが減ったと思う。

 とはいえ、未だに捨てるのが苦手なものがある。それが、空き瓶だ。大学生の頃に一人暮らしを始めてから、結婚して今の生活に至るまで、それなりに自分で工夫して自炊するようにしている。そんな中、周期的にハマったり飽きたりしている食べ物がある。瓶に入っているほぐした鮭だ。あったかいご飯に乗っけても良いし、お茶漬けにも良い。とにかくご飯が進むので、妙に食べたい時がある。瓶に入った鮭のほぐし身を食べ終わると、瓶と蓋をよく洗って、乾かす。そして、それを空き瓶として捨てれば良いのに、捨てられないのだ。段ボールや発泡スチロール、ペットボトルなんかは資源ごみとしてちゃんと出せる。同じように瓶だって資源ごみとして出せば良いのに、つい溜めてしまう。わたしの「弱点」だ。

 その背景は、子供の頃から親しんだゲームにある気がする。それが、いよいよ本日nintendo switchとともに新作が発売された「ゼルダの伝説」シリーズ。わたしはまだ買っていないけれど、新作もどこかのタイミングで買おうと思う。ゼルダの伝説シリーズは、時のオカリナから猛烈にハマった。何周したかわからないくらい遊んだ。そして、このゲームの中で、「空き瓶」というのは、とても重要な役割を果たす。体力や魔法力を回復するアイテムをいれられるだけでなく、それがボスの繰り出す攻撃を打ち返すこともできるし、あるいは重要な登場人物を詰めて持ち運ぶこともある。とにかく、大切なのだ。わたしは実践しないけれど、バグ技にも、空き瓶を使うものが色々あるらしい。とにかく、空き瓶様様だ。

 わたしがつい鮭を食べ終わって残った空き瓶を残してしまうのは、ただ他のプラスチック類の容器なんかと比べて丈夫そうな気がしたり、まだ使い道がありそうに感じてしまったりするだけでなく、このゲームの影響が少なからずある気がする。さすがに、妖精をいれて持ち歩ける日が来ることなんかは期待していないけれど。

イギリスの洗濯機

 昨日のコインランドリーでの出来事を改めて思い出して、自分がちょくちょく乾燥機のドアを開けては、回らずにただ熱風を浴びる洗濯物をひっくり返したさまが餅つきの時の合いの手と重なって、自分でおかしくなってしまった。幸い、誰にもその姿は見られていないはず。ちょっと見られるには滑稽すぎる。

 それと連想的に思い出されるのが、イギリスの父の家の洗濯機だ。あれは回らないということはないが、かなりの旧型で、一度の洗濯に二時間はかかる。そして、うっかりニット系の衣類を入れてしまうと、大人のMサイズだったはずの服が縮みに縮み、子供服のようなサイズになってしまう。そして、びっくりするほど生地が分厚くなる。いわゆる「フェルト化」という現象だ。これに何度痛い目に合わされたか、と思う。

 イギリス(の、少なくともわたしがいた地域)では「洗濯物をベランダに干す」という習慣は基本的になく、乾燥機を使うのが主流なようだ。庭に物干しを置いて、庭で干すということもあるようだが、少なくとも、道路から家々を見上げると風にたなびく洗濯物が見える、という日本でよく見られる光景は、イギリスでは一度も目にしなかった。やっぱり洗濯物はプライバシーなのだろう。

 洗濯している二時間のほとんどの間、洗濯機はゴオーー、ゴオーーと唸るような音をたて、結構うるさい。父とわたしは徒歩圏内に住んでいたので、わたしは週に一回、父の家に洗濯機を借りにいっていた。一応寮にもコインランドリーはあったが、毎回お金はかかるし、ちょっとぼさっとすると次の人が中に入っている洗濯物を勝手に出してそこらに置いてしまうらしいと聞いたので、父に甘えることにしていた。だから、父の家での洗濯が、毎週末の朝の習慣になっていた。そうして洗濯機をスタートさせたら、二時間は洗濯が終わらないのだから、それが格好の父との散歩の時間となった。以前も書いたけれど、この洗濯の時間は、親子の大切な時間になっていたと思う。散歩をし、ランチを食べて家に帰ると、ちょうど洗濯が終わっているので、そこからさらに乾燥機にかける。そうやって、週末の半日が終わる。

 一つの、良い週末の過ごし方だった、と思う。

回らない乾燥機

 今日は洗濯機を回すのがいつもより遅くなったのと、天気もイマイチだったのとで洗濯物がすっきりと乾かず、コインランドリーの乾燥機を使うことにした。薄手のものはともかく、やっぱりこの季節は厚手のものが多い。だから、特に乾燥機に入れたいものだけを選んで大きなバッグに入れ、あとは好きな文庫本と乾燥機代200円(10分100円の乾燥機だ)とスマホだけを上着のポケットに突っ込んで、コインランドリーへ。わたしが住む街は銭湯も多く、自然とコインランドリーも多い。この街に住むようになって、初めてコインランドリーの便利さを知るようになった。

 さあ、玄関を出て1分でコインランドリーに着く。洗濯物を乾燥機に入れ、20分乾燥のために、100円玉を2つ投入口へ。そして、スタートボタンを押し、ヒーターがごおごお鳴るのを聞きながら、わたしは近くの椅子に座り、持ってきた文庫本を取り出した。20分と言うと待つと長いがちょっとした読書には良い。本に挟んでいたしおりのページを開き、何気なく乾燥機を見上げると、相変わらずごおごお音は立てているものの、一向にドラムが回らない。あれは、熱風が吹く中でドラムが回るから洗濯物全体に乾いた空気が周り、乾燥する仕組みなのだから、回らないと困る。熱風が乾燥機の中を満たしてから回るんだっけ、と思ってしばらく見ていると、残り時間の表示が20分から19分、18分と減っていく。それでもドラムは回らない。設定がおかしいのかな、と思い、標準モードから送風モードとか、低音モードとかに変えてみてもドラムは回らず、いてもたってもいられなくて、ドアを開けた。そうしたら、ドアが開いたのが感知されて熱風は止まり、洗濯物を触ると、表面は暖かくなっていて、重なっている内側を触るとひんやり冷たい。やっぱり、これじゃあ乾かない。最初に100円だけ入れて始めていれば、とりあえずその100円は諦めて他の乾燥機に洗濯物を移してやり直せるけれども、わたしは持ってきた全額の200円をすでに入れてしまっていて、お財布は家に置いてきたから有り金はゼロ。ドアを閉め、再びスタートボタンを押すと、熱風だけが再開した。

 これは仕方ない、と思い、数分に一回、ドアを開けて手動で洗濯物をかき回すと言うことを2度ほどしたけれど、バカバカしくなってしまった。仮にわたしが乾燥を終えられたとしても、次の人がやっぱり困るはず。無人のコインランドリーだと、誰に言えば良いかわからなかったけれど、あたりを見回すと、管理人の電話番号が書いてあったので、電話をして、きてもらった。結局、管理人さんもすぐには原因がわからなかったようで、200円を返金してもらい、隣の乾燥機を使うことに。とは言え、手動でかき回しながら、その時までにすでに15分も熱風に晒していたので、だいぶ乾いている。悪いかな、と思いながら、返金されたうち100円だけ乾燥機に入れた。今度は回った。

 洗濯物は、ある意味とてもプライベートなものだ。今回については乾きにくいものしか入れていなかったから良いけれど、下着なんかを入れた状態で乾燥機がおかしくなってしまっては、恥ずかしかったと思う。実際、状況を見るために、管理人さんはわたしの洗濯物が入った状態で乾燥機を開けた。無人のコインランドリーと油断していたら、急にプライベートが明るみに出た感じがして、少し居心地が悪かった。それが、下着を含まない、服やタオル類ばかりだったとしても。

 ちょっと気まずい思いをしながらも、10分後、しっかりわたしの洗濯物はホカホカになった。とりあえずバッグに洗濯物を入れ、家に帰って出して見ると、ちゃんと乾いていた。空気を含ませながらの乾燥機は、タオルをふわっとさせてくれる気がする。トラブルもあったけれど、結局のところ、バッチリ乾いた清潔な洗濯物の気持ちよさを手のひらで味わうと、やっぱり便利だなあ、という方向に心は収まってしまった。そういえば、ポケットに突っ込んだ文庫本は、結局1ページも進まなかったけれど。