祭りの気配

 もうこの季節になると、三社祭が話題に上がる。浅草の地元の人たちは、三社祭が終わった次の日から翌年の祭りの話を始めたりするそうだが、そうでない人たちも、祭りを意識するようになる。昨日は、お神輿を連れてお囃子とともに浅草の町を練り歩き、浅草寺の外陣へ「堂上げ」し、一晩、御本尊のところで泊まって、今日また「堂下げ」して戻したらしい。今日は泊まって明日帰るなんて、友達のお家へのお泊まりみたいな話だ。昼前から揃いの法被を着た人たちがぞろぞろ歩いているのを見て、やっぱり祭りの町なんだなあと思った。浅草寺の僧侶たちは読経をし、浅草神社宮司さんは祝詞を奏上したそうで、お寺と神社が一緒になっての儀式というのは興味深い。

 昨日は美容室に髪を切りに行ったのだけれども、そこの店長が言うには、祭りに賭けている女性たちは、祭りの日に髪をキュッと結う特別な髪型にするために、一年かけて髪を伸ばすなどして用意をするそうだ。そして、祭りが終わると一度ばさっと切って、また翌年の祭りに向けて髪を伸ばす。

 この街では、祭りが暦の中心のようだ。

寝る前の儀式

 わたしが寝る前にとる行動は、ほとんどいつも決まっている。まだ着替えていない場合は寝巻きに着替え、キッチンに向かう。今住んでいるアパートはオートロック付きで築浅、収納もそれなりで、スーパーも近くにあるというとても良い条件の物件なのだけれども、唯一の弱点が、洗面台がないことなのだ。スペースを確保するために、洗面台を置かないことにした、と大家さんは言っていた。まあ、確かに洗面所でしたいことは、お風呂場かキッチンのシンクでどうにかなるのでそこまで困っていないけれど。ともかく、寝る支度のために、キッチンへ向かう。それで歯を磨き、顔を洗い、コンタクトレンズを外して顔に化粧水とかをつけて、寝る前の薬を飲んでおわり、というのが理想の流れだ。

 でも、いつだってその流れ通りにいかない。大抵直前までお茶か何かを飲んでいるので、シンクに立つと大抵洗い物が残っている。そして、洗い物が終わると、次々と小さい家事が見つかってしまう。それが終わると、手洗いせっけんで綺麗に手を洗い、歯ブラシに手を伸ばすーーはずが、「手洗いうがい」が身に染み付いているせいで、手洗いせっけんで手を洗うと、自然と手がコップに伸び、気づくとうがいをしている。うがいをするのは悪いことではないけれど、こうやって、しょっちゅう、家の中で手を洗っては、うがいをしているらしい。もはや、癖である。うがいをして、コップを軽くゆすいで、タオルで手を拭き終わる頃には、歯を磨こうとしていたことを忘れ、テーブルの上を片付けたり、携帯に手が伸びたりしてしまう。手洗いうがいは、いつもわたしのペースを乱す。

 自分の頭の中で、「寝る前には、こうしているはず」というイメージと、実際に自分が取っている行動との間には、意外とギャップがある。普段はあまりにも意識しない、小さなことがたくさん挟まっているのだ。ほんの数分のことだけれども、ほんとうに自分がどういう順番で何をしているのかというのは、思っているより複雑らしい。今日は、歯まで磨いた後に、ブログを書いていなかったことにきづいて、ブログが挟まった。今日も少しだけ、ルーティーンが変わっているらしい。

謎の壁

 とある民家の、コンクリート打ちっ放しの外壁。一体、どうやってこの模様?がついたのだろうか。いくら見ても想像がつかず、諦めてしまった。もはや、何か生き物が上を這った跡だろうかとかそんなことも考えてしまいつつ、ほんとに、よくわからない。下の方では跳ねているような模様になっている。どういう道具があれば、こんな模様を描けるのだろう?なんのためのものだろう?

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今日の一言:その1

 ブログも、さすがに毎日高い熱量のものを書くのは苦しくなったので、たまには「今日の一言」と題して、写真に、一言だけ添えるという日を作ろうと思う。まあ、自分を甘やかす日だ。

 そんなわけで、今日の一言。猛禽も良いけれど、やっぱり哺乳類も可愛い。

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けものじゃなかった

 うちの実家のフクロウを「けもの」というように書いていたけれど、あれはどうやらけものではなかったらしい。「けもの」というのは、基本的には全身が毛に覆われた四足歩行の、特に野生の動物のことなのだそう。「全身が毛に覆われ」だから、トカゲや蛇はけものじゃないし、「四足歩行」だから、鳥も違う。わたしのイメージだと、犬猫や牛、馬といった、長いこと人間に飼われている家畜類の対義語としての「けもの」だったのだけれども、違うようだ。四足歩行のモフモフの生き物が「けもの」なのだから。

 そうなると「けものフレンズ」に出てくる「フレンズ」たちの中にも、「けもの」じゃない者がいるということになるが・・・まあ、それは良いことにしよう。

けものの居ぬまに仕事

 今日は事務仕事を手伝いに実家に呼ばれて行った。リビングで、ひたすらに手を動かし、母の属する会の会報を発行する準備。よくよく考えたら、わたしも別の会の会報を発行するための編集をやっているから、母娘ともに似たような仕事をしているから不思議だ。

 昼頃に実家につき、頼まれた買い物を渡し、とりあえず昼ごはんと食卓に着いたら、食べている間でもお構いなしで、実家のフクロウはわたしを狙う。妙に飛び回ると思ったら食卓の上にタンッ!と乱暴に着地し、しばらく眺めていたと思ったら、ガツンとわたしの頭を蹴飛ばして食器棚へ。そこにいる間も、ずっと威張ったような格好をしてわたしを見ていた。食事中はやめてほしい、と思いつつ、フクロウには食事中かどうかなんて関係ない。とにかく、イライラモードだった。

 こんなに不機嫌なフクロウがリビングにいては仕事にならない。そういうことになって、廊下へ続くリビングの扉を開けた。扉から出ると玄関までつながっている。実家は玄関入ったところが吹き抜けになっていて、高いところに窓がある。うちのフクロウはその窓の縁へ行って外を眺めたり、吹き抜けにある梁に登ってじーっとしているのが好きだけれども、そんな高いところに行かれると、人間の手に届かなくなってしまうので、リビングに戻ってほしいときに連れもどせない。だいたい、呼べば必ず来るという生き物でもないし、じっとしているのは得意なので、下手をすると半日以上、そこにいる。普段はそこに行かないようにとしているけれど、仕事の邪魔になるのだからしかたない。事務仕事中、リビングは出入り禁止とし、吹き抜けにいてもらうことにした。フクロウはフクロウでわたしを見張る必要がない上にいつもはあまり許されない吹き抜けにいけるし、わたしはわたしでリビングを歩くのにビクビクしないで良い。ウィンウィンだ。仕事は、はかどった。

 「ふくろうはふくろうでわたしはわたしで」という言葉で思い出すのは、種田山頭火の俳句だ。

 ふくろうはふくろうで わたしはわたしで ねむれない

  種田山頭火

 

去年、ふくろうのことを調べているときに出会った句で、とても気に入っている。

香りのものを楽しむ

 この時期は実家に帰るたびに野草を摘んでそれを夕飯にするというのを楽しんでいた。でも、一昔前は採取できたタラの芽が、ここ数年は取れなくなっていた。理由は、タラの芽が採れた場所が整地され、家が建てられてしまったから。もちろん、八百屋などでもタラの芽は売っているけれど、高いし、香りもイマイチということが多い。近所でせっかく採れたのにそれをお金を払ってまで買うというのは悔しくて、買わずにいた。

 でも、今日100均にいったら、こんなものを見つけた。

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 たらの芽とミョウガの、苗である。他にも、フキノトウの苗とアスパラガスの苗も売っていたが、こちらは買わなかった。ミョウガは今の時期に植える。そうすると、もう今年の5月には収穫だそうだ。袋の中を見てみると、ミョウガの方は枝別れている苗(根っこのようなもの)の節のところから、すでに細い芽が出ている。これが大きくなれば、あの、八百屋に売っているミョウガになるのだろうか。色はすでにミョウガらしい。

 一方のたらの芽だけれども、今の時期植えると、翌年の春に収穫できるらしい。苗の袋には、長さ15センチメートル、直径5ミリメートルくらいの、まっすぐな棒が一本入っているだけ。これを、地面に横向きに埋めるらしい。ほんとに、これが育って来年にはたらの芽になるのだろうか。

 今わたしが住んでいるところは、植えられるところはない。特に、日差しに弱かったり暑さに弱かったりする植物を植えるには向かない。なぜならあまり広くないベランダの、エアコンの室外機の隣しかスペースがないからだ。エアコンの室外機からは、夏になると熱風が吹く。これまで、かなり丈夫で育てやすいと聞いたミントも枯らしてきた。そういう不毛の砂漠のような場所なので、ウチでは諦めた。ただ、母が住む実家には庭もある。母に聞いたら買ってみるというので、とりあえず代わりに買っておいた。次に実家に行くときに持っていき、庭に植えることになるだろう。

 自分の手で、自分の生活に深く関わるものを作るのは面白い。食材にせよ、他の、身近なものにせよ。母は、それが高じて大学生の頃、機織り職人の元に弟子入りしたくらいだ。着るものを自分の手から生み出してみたいということだったようだ。

 数ヶ月後には、ミョウガが食べられるようになっているのだろうか。タラの芽も来年には収穫できるのだろうか。ミョウガは一度植えれば、毎年生えてくるし、タラだって、一度木が育てば毎年芽がでる。100均で、これだけの楽しみを買えるのは、嬉しいものだ。