どうして記憶したいのか

 最近、人が書いた文章に、コメントをつけて返すというようなことを意識して実践している。ただ「面白かった」とか「素敵だった」とか書くのは、たぶん、誰にでもできることで、そういう言葉をコメントとするのは、勿体無いしつまらない。だから、できるだけ具体的に、あるいは内容に深く踏み込んで、コメントをするようにしている。それは、相手が伝えたかったことに対して、「ここまで伝わりましたよ」ということをわかってもらうためでもあり、「この部分についてもっと知りたいですよ」という読み手としてのメッセージを伝えるためでもある。

 文章上でのコメントを返す力、というのは、熟考もできるし、添削もできるから、まあまあどうにかなる。さらにレベルが上がるのは、会話やプレゼンの中での反応の仕方だろう。そこには熟考の時間もなければ調べ物の時間もない。その場その場で、ふさわしいコメントを返す。感想だったり、疑問だったり、違う考えの提示だったり。これも、「なるほど」とか「ためになりました」なんて言葉は陳腐で、もう少し分け入ったところで言葉を交わしたい。そういう場面での、コメントの力をつけたい。

 

 さて、この「良い」コメントをするちから、あるいは良い反応をするちからは、一般的な、暗記の多い学校教育とは関係がないようにも見えるけれど、そうではないことを実感している。結局は、自分の反応のちからは、自分の知識の引き出しの数だったり、引き出しの中身の質だったりに依存してしまう。難しい話をされても「へ、へえ・・・」と返してしまうのではなく、「それって◯◯が関係している?」など、わかる範囲内で会話が続けられれば、そこからさらに引き出しは肥えてゆく。「いまどきグーグルでなんでも調べられるのだから、モノを記憶する必要なんてないよ」なんていう人もいるけれど、会話の中では、ググる時間なんてない。ナチュラルな会話のスピードについていきながら、自分の引き出しを肥やすためには、まずはある程度耕されて、その話題につながりを持てそうな引き出しを持っている必要があるのだと思う。

 どんな知識だって、短期的に役に立つかはわからないけれど、覚えておけば、自分の知識を耕してくれる。それがいつか、なんらかの形で自分の(または他人の)役に立てば良い。そういうスタンスでいたいと思っている。

 ふと思い出したのは、高校三年生の冬。もう大学受験も目前に迫っているというのに、お正月のクイズ番組を呑気に観ていた。「なぜヒト以外の動物は黒目がちなのか」という問題が出て、その答えが「白目があるから、黒目の動きがわかる。ヒトは視線を交わしたりする行為がコミュニケーションの一部になっているが、他の動物にとっては、天敵に捕まりそうなときに視線の先がバレると、捕まって食べられてしまうから視線はばれないほうが良い」というようなものだった。そのときは「へえ」くらいにしか思わなかったけれど、その後、大学受験の英語のリーディングで、「なぜヒトには白目があるのか」というような文章の読解が出てきたときには、仰天した。ついこの間、テレビで観たばっかりの問いが、自分の受験した大学の試験に出てきたのだ。テレビで得た予備知識があったから、すらすらと長文を読み、問いに答えることができた。結果として、その大学に受かることもできた。「テレビを観ていたおかげ」と一言で言うことはできないが、助けにはなったと思う。

 これは極端な例だけれども、いろいろなことを知識の引き出しにどんどんストックしたい。知識だけは、断捨離も、行き過ぎた整理整頓も、不必要だと思う。