温泉卵の失敗

 卵は色々に調理して食べられるからこそ、食べ方の好みが別れる。卵単体で食べるものだけでも、目玉焼き、卵焼き、ゆで卵、スクランブルエッグなどなど。他の食材も加われば、つくしの卵とじとか、親子丼、卵スープ、卵チャーハン、茶碗蒸し、プリンなどなど、とにかく種類が多い。そんな中でも、私は温泉卵が好きだ。そもそも、温泉旅行に行った時に、硫黄の匂いがぷーんと立ち込める空気の中で食べるという特別感もある。前日の夜にたっぷり温泉に入って、翌朝はその源泉に入れておいたであろうとろとろの卵をいただく。その一連がまとめて好きなのだろう。

 家でそれを再現するのは、簡単ではない。何しろ、「非日常感」がない。家は、「日常」の中でも最も日常の場所だ。いつもの食器、いつもの景色。それでも、なんとか温泉卵が食べたくなって、作り方を調べて実践した。

 グラグラと沸騰しているお湯ではなく、普段のお風呂より熱いお湯に入れておく。ちょっとぬるめな気がしたので、時間は長めに1時間。一応、ネットでも温度と時間を調べた。とはいえ、温度計なんて器用なものは持っていないので、指先をちょこっとお湯に入れた時の「熱っ!」の感覚で測るしかない。それで、試してみた。

 

 間違いなくお風呂より熱いお湯に入れて一時間後、ドキドキしながら、まだ冷めないお湯から卵を出した。そして、シンクの角にコツコツとぶつけてヒビを入れ、お皿にゆっくりと出す。

殻の隙間から出てきたのはーー

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 生卵でした。

おかしい。絶対、おかしい。わたしが大好きだったドラマ、「TRICK」で、卵が割れるとヒヨコが出てきたのと同じくらい、おかしい。

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 だって、あんなにお湯に入れていたのに!誰かがすり替えてしまったのか。何しろ、固まりかけてる気配すらない。上田が白目をむいてひっくり返ってしまいそうなくらいわけがわからない。・・・というほどではないけれど。単純にいえば、半端に温め続けてしまったということだ。さすがにこれをこのまま生で食す勇気はなかったので、急遽お味噌汁を作り、温泉卵になるはずだった生卵をといて入れた。美味しいお味噌汁にはなった。無駄にはせずに、すんだ。

 

 結局のところ、最初はちゃんとお湯の温度管理が必要ということか。温泉卵はひとまずお預けである。料理用の温度計を買おうかしら、とつい思ってしまった。

やりたいことリスト

 最近作っていなかった、「やりたいことリスト」を作った。普段、「やらなきゃいけないこと」はノートに書いて、順番にこなす。例えば直近だと、確定申告とか。でも、それは別に「やりたいこと」ではない。たしかにちゃんと間違いのないように納税はしたいけれど、ほんとに心の底から確定申告したくて仕方ないとか、考えるだけでワクワクするなんて感情はないわけで、やっぱりこのタスクは「やらなきゃいけない」ことだ。(そもそも「タスク」という言葉が思い浮かぶだけで、やりたいという気持ちはあまりないことがわかる)

 今日、新たに作ったやりたいことリストには、28項目が挙がった。ボルタリングがしたいとか、博物館行きたいみたいなものもあれば、誰に会いたいとか、誰に電話したいというようなものもある。買いたいものが挙がったと思えば、「散歩」のような、書き終わったら即実行できるものもあった。今回は、たぶん28項目挙げるのに、10分もかからないくらいだったと思う。あまりじっくり考えるよりは、ぽんぽんと素早く列挙するほうが良い気がする。連想が働く。そうすると、あまり念頭になかったアイディアまで一緒になって出てきたりして、楽しい。時間をかけて挙げるよりも、直感的に「楽しそう!」「やりたい!」と思えることを挙げるようにしている。じっくり考えてしまうと、だんだん「やりたいこと」の中に「やらなきゃいけないこと」が混ざってしまうのだ。

 普段ちょっと時間ができたときにも、やりたいことあんまり無いなあと思ってしまうと、結局ゴロゴロして過ごしてしまう日もあるのだけれど、こうやってリストを作っておけば、ああ、あれがやりたかった、とすぐに思い出して、楽しいことができる。

 このところはさぼってしまったけれど、ある程度定期的に作るのは良いものだなあ。直感で作る「やりたいことリスト」、ぜひ、おすすめです。

誰が子供を叱るか

 日用品を買おうと出かけたら、店頭で展示されているソファで、小学校低学年くらいの子供たちがわざわざ靴を脱いでキャッキャと遊び始めた。そのソファの前には、展示物なので休憩したり遊んだりしないように、という注意書きがある。あ、これは親がきて「こらっ!やめなさい!」と叱れられる場面だ。そう直感した。

 でも、現れたのは、店員のお姉さん。子供たちの方に向くわけでもなく、近くまで行って、ひたすら「いらっしゃいませ〜」「いらっしゃいませ〜」と言い続ける。そのお姉さんに気づいた一人のパパが、男の子一人に「やめなさい」と言いながら、ソファから下ろそうとしたけど、他の子達とは関係ないのか、他の子供には注意しない。お姉さんは、困ったように「いらっしゃいませ」を続ける。「この子たちの保護者の人、どうか気づいて!」という心の声が聞こえるようだった。

 何か言えば、トラブルになるかもしれない。そういうリスクが頭の中に出てきてしまって、なかなか他人は口を出せない。一方の店員さんが子供に注意をできなかったのは、そういうマニュアルだからだろうか。

 結局わたしが見ている間に、パパにソファから降ろされた男の子以外の子達の保護者は現れなかった。店員さんは「いらっしゃいませ」だけだった。そりゃあ、「いらっしゃいませ」だけ言っていたって、「ここで遊ばないでね」という言外の意味を伝えるのは難しいだろう。それをいけないことと思ってなければ、店員さんがせっせと呼び込みをしているだけにしか見えないのだから。わたしを含め、周りの大人たちは、心配なような、困ったような、でも見えないふりという感じだった。子供は相変わらず、夢中で、楽しそうだった。

 つかつか、と歩み寄って、何か気の利いた言葉でも言えれば、格好良かったんだろうけれど、それにはまだ経験値が足りなかった。

左手ありがとう

 昨日書いた通り、左手首がすこーし痛い。腫れてもいないし、色も変わっていないから大したことはないが、体重がかかったり、角度が悪いと痛い。とはいえ、利き手ではないから全く生活に関係ないだろう、と思っていたら、そんなことはなかった。

 まずは、ベランダへの窓を開けること。洗濯物を干すのに、右手は洗濯物でふさがっているので左手で開けようとするのだけれども、案外重い。普段は気にしない重さが、今日は妙に気になった。

 ドライヤーで髪を乾かす時。ドライヤーを握るのは右手だけれども、その間、左手で髪を梳く。結構、左手首を器用に使う必要があるのだ。あれれ、ちょっと不便だぞ。

 米を研ぐにも、左手で炊飯器の釜を持ち、右手で研ぐ。炊飯器の釜は重いので、結構しんどかった。

 そして、フライパン。炒め物をするのに、右手は菜箸、左手でフライパンの取っ手を握る。ガシャガシャといつも通りフライパンを振ろうと思うと、ズキッとする。ああ、左手、利き手じゃないから重要じゃないと思っていたけれど、そんなことないんだなあ。反省した。どれも、こなせないほどの痛みはない。こなせるけれども、一瞬の「ズキリ」がある。それで、普段の元気な左手の頑張りに気づかされる。

 左手使いすぎないように、気をつけて数日過ごそうと思う。

けものの気配

 スノボ旅行から帰ってきた。スノボリベンジから一夜明けると、転んだ時についてしまった手首が痛むことに気づいて、帰宅してから湿布とテーピング。パソコンのキーボードをたたく分にはほとんど痛まないし、ある特定の角度にしないかぎりは、大丈夫。ただ、床に座った姿勢から、手をついて立ち上がろうとすると、ずきりと痛む。とりあえず一晩、湿布とテーピングはそのまましておこうと思う。

 鬼怒川温泉からスキー場へむかうバスの車窓の景色は、山を登っていくにつれて白くなっていった。最初は日当たりが少ないところだけに雪が残っていたのが、次第にほとんどの地面が雪に覆われるようになっていって、最後は、山肌全体が、きめの細かいホイップクリームをたっぷりと塗ったようになっていた。そんな山の姿を近くでみることなんてこれまでほとんどなかったので、スノボへの期待感とともに、ワクワクしながら眺めていた。

 歳時記によると、ふくろうの季語は冬なのだそう。たしかに、雪をかぶった山に、ふくろうはよく似合う気がした。木々の間の雪原には、けものの足跡がある。いくつかの種類があるようで、その一つは、うさぎのようだった。うさぎは、前足をそろえて出して、後ろ足がぽーんとその前に出る。ちょうど、連続で馬跳びとか跳び箱を跳んでいるような恰好ということだ。その連続馬跳び的な足跡が縦横無尽に広がっていて、ときどき、雪原を出て、雪かきがされている車道にも出てきているようだということがわかった。実際にうさぎの姿を見られたわけではないけれど、自由に駆け回る足跡を見るだけで、そのようすを想像できて楽しい。そして、木の上でじいっと待っているフクロウは、それを見つけると格好のごちそうとばかりに狩りを試みるのだろうか。想像の上でしかないけれど、そんな舞台に見えた。夏の、地面の草がわんさか生えた森よりも、雪に覆われた森のほうが、やっぱりフクロウには似合う気がする。

 車窓から、うさぎの姿は見られなかったけれど、岩陰に鹿がいるのは見つけた。こちらに背を向けていて、お尻のあたりの毛は白く、ぼさぼさしていた。角がなかったから、メスだろうか。これは夫が気づいたことだけれど、山の木々のなかには、ある高さのところだけ皮が剥かれているものがいくつもあった。きっと、鹿などのけものが木の皮を食べるのだろう。うさぎとフクロウの生き残りをかけた戦いの想像を超えて、ほんとに鹿に出会って、さらに山から「生」を感じることができた。

 今日は東京へと戻るばかりだった。行きと同じように帰りも東武線に揺られて東京へ。昨日の疲れもあり、ぼーっと車窓の景色を眺めていると、田んぼの端の方で、一羽のキジが走っているのが見えた。あのフォルム、あの尾羽、あれは間違いなく、キジだ。鷹狩りのシーズンももう終わる。あの地域に鷹狩りをする人がいたかわからないけれど、あのキジは、すくなくともこのシーズン生き延びた。

 生き物を感じるための旅行ではなかったけれど、帰ってきてみたら、冷たい風を切って雪山を滑り落ちるスリルで自分の命を感じたり、野生のうさぎやフクロウの気配や、鹿とキジの姿を発見したりと、ずいぶん野生を感じた二日間だった。

達成!

夫婦で鬼怒川に旅行に来た。平日に旅行ができるのは、夫の休みが平日になったことによって気軽にできるようになった嬉しいことのひとつ。今回の旅の目的は、温泉でもカニ食べ放題でもなく、スキー場へのリベンジだ。浅草から鬼怒川まで東武線で一本で来て、そこからシャトルバスで、ハンターマウンテンスキー場へ。

わたしはスノボの初心者レッスンを受けることにしていた。鬼怒川温泉駅からスキー場までシャトルバスが出ているのは嬉しいけれど、それに乗ると午前中のレッスンが受けられないのが残念だ。一時間くらい間に合わない。だから、スキー場に着いて、取り敢えず午後の初心者レッスンの受付をして、そこからレッスンの時間まで空いてしまう。結局、夫と一緒にリフトに乗り、夫のサポートで中級〜初級コースを滑ってしまった。いきなり中級コースという夫のスパルタっぷりにヒイヒイいいながらも、なんとか下までたどり着いた。夫はスパルタだけど、教えるのがうまい。

その直後からは夫と別行動でわたしはレッスンスタート。平日だからか初心者レッスンを受ける人はわたしの他におらず、一般料金なのにマンツーマンで教えてもらった。直前まで行われていたスパルタ訓練のおかげで、順調にレッスンが進んだ。ひとまず、他の人と比べればそろりそろりではあるが、降りられるようになった。

宿に戻り、たらふく美味しいものを食べ、温泉に入り、一休みにベッドに体を沈めた。白いカバーの掛け布団をかけている自分の足ものを見下ろすと、ゲレンデを思い出して、体が斜め下に滑りだすような感覚。まだスピードは怖いけれど、良い冬の楽しみになりそうだ。