秘密主義とトイレ

 わたしは結構な秘密主義の人間だ。まわりからしたらなんてことないことも、秘密にしておきたいタチで、書き途中の作文も、テストの成績も、構想段階のプレゼン案も、今読んでいる本も、ほんとは内緒なのだ。そんなだから、小さいころからコソコソしていることが多かったのかもしれない。きょうだいはいなかったから比べる相手もいないけれど、我ながらコソコソしていた気がする。

 子供のころ、わたしひとりの子供部屋は与えてもらったけれど、お母さんはいつでも入ってくるし、内緒事には向かない。そんなわたしが好きになったのが、トイレという空間だった。

 自分ひとりでトイレに行けるようになれば、子供が相手だとしても、親も誰も、自分が入っているトイレに入ってくることはまずない。ほどよく狭くて小ぢんまりしていて、秘密めいた「トイレ」という空間が、いつのまにか好きになり、別にやましいことがなくても、トイレで本を読んだり、ゲームボーイを持ち込んでゲームをしたりしていた。

 大学生になって、わたしとトイレの関係を変えてしまうほどの、ショッキングなことに出会った。それは家族旅行をする機会があり、フランスに連れて行ってもらった時のこと。2010年だった。憧れていたルーブル美術館の中を巡っていたところ、急にトイレに行きたくなった。けれども、そもそも簡単にトイレが見つからず、やっとの思いで見つけたトイレが、出るものも引っ込むような、床はビショビショ、そこにトイレットペーパーがふやけて浮かんでいて、便器の中も出来れば見たくない、そういう、お世辞にも綺麗とは言えないようなトイレだった。

 世界的に有名な、あの、ルーブル美術館のトイレが、こんなに汚かったなんて!

 建物自体はとても綺麗だし、もちろん展示されている美術品もよく管理されているし、「汚さ」なんて微塵も感じさせない場所だったのに、トイレに入った瞬間、がらりとイメージが変わってしまった。あんなに「美」に敏感なフランスで、しかも美術館で、トイレが汚いなんておかしい。ちょっと古臭いとかならともかく、汚かったのだから。

 それがきっかけで、トイレはただ「好きな場所」から「研究の対象」になった。文化人類学を専攻していたわたしは、文化と「清潔」の概念の関係に興味を持ち、結局はそれが卒業論文の題材にも、日本の清掃業との出会いにも、そしてその後の留学の大きな助けにもなった。

 トイレを「秘密の花園」として、プライバシーを楽しむ空間にできたのは、わたしの生まれ育った環境にあるトイレが十分に綺麗だったからだ。ほんとうに汚いと感じる場所だったら、排泄の目的以外にそこで過ごすのは、生理的に拒否してしまうだろう。わたしの秘密主義がトイレで満たされたのは、「トイレは綺麗にしておきたい」という日本文化によって支えられたものだった、とも言えるかもしれない。

 

 今では、ルーブルのトイレも見直され、綺麗に改装されたそうだ。あれ以来、一度もフランスへは行っていないが、どれくらい綺麗になったのだろう。いつか、見に行ってみるつもりだ。