トイレの文化人類学

 わたしがトイレに興味あるというのは、このブログを始めた頃にも書いたけれど(「秘密主義とトイレ」)、じつは大学生の頃、卒論の研究は「トイレの文化人類学」にしようと思っていた。トイレは、ただ排泄するためだけの場所じゃない、一人になって落ち着いたり、こっそり隠し事をしたり、あるいは学校のトイレなどは女子同士でおしゃべりする場所にもなったり、そこには「社会」が、そして「文化」があるのではないか、と思ったからだ。食事と同じくらい、排泄は、生物的に自然なことだ。でも、食事は誰かと一緒にしても、たいていの場合、排泄は隠されたプライバシーだ。「身体から何かを出す」という行為にケガレという概念が結びつくのは、ダグラスのPurity and Dangerにも触れられている。食事中に、トイレや排泄を想起させるような言動を取れば、怒られてしまう。一方で、日本では、便座があったかくなるどころか、音がなったり、お尻を洗ってくれたりという機能がたくさん開発されただけでなく、オシャレさに凝ったり、「憩いの場」としてデザインされたりと、場所に与えられた目的が広がっているように見える。どうして日本のデパートやホテルのトイレは綺麗なんだろう?どうしてトイレに行くと「安心感」が得られるという人がいるのだろう?「風呂とトイレが別」であってほしいという気持ちは、どういうことなのだろう?そういうことが、気になっていた。

 ただ、研究は断念した。なぜなら、文化人類学で重要となる、「フィールドワーク」が行いにくい場所だからだ。観察させてください、なんて言えない。インタビューだって、そう簡単には応えてもらえないだろう。表面上は、「うん、わたしもトイレって落ち着くから好き」とか、「実はトイレで本を読むと妙に内容が頭に入る」とか、そういう話は聞けたとしても、ほんとのほんとに深い所の話にたどり着くには、ハードルが多すぎるのではないか。そして、セクハラだと思われてしまうのではないか。そういうことを考えたら、とてもじゃないが、実行しようとは思えなかった。仮に女子トイレの中にいさせてもらえたとしても、男子トイレは無理だろう。自分がどちらの性であったとしても、自分と違う性のトイレに踏みこめる気がしなかった。(それ自体が、興味深い所でもあるのだけれど)

 結局は、「どうして日本のデパートやホテルのトイレは綺麗なんだろう?」という問いが発展して、日本の掃除や清掃の文化について研究することになった。その時に出会った、日本の清掃会社の社長さん達とは、今も繋がっている。今となっては、研究テーマを清掃にしてよかった、と思っている。当初は全く見えていなかった、「清掃」を仕事にしている人たちが、自分の仕事をどう思っているのか。また、もう少し広い文脈で、日本の宗教や教育といった場面では、掃除はどのような役割を持っているのか。そういうことに触れることができた。その論文があったからこそ、わたしはオックスフォードへの留学も叶った。

 とは言え、トイレについての興味も、捨てずに持っていよう。アンテナを広く持っていよう。いつどういう時に、そのアイディアを活かせる時がくるかはわからないのだから。